七月暴動|ロシア革命を揺るがす武装蜂起

七月暴動

七月暴動は、1917年7月に首都ペトログラードで発生した大規模な武装デモであり、二月革命後のロシア臨時政府と労働者・兵士のあいだの緊張が爆発した事件である。前線の犠牲と生活苦に不満を募らせた兵士や労働者が「全ての権力をソヴィエトへ」を掲げて蜂起し、一時は政権転覆の危機を生み出したが、最終的には臨時政府とソヴィエト多数派によって鎮圧され、ロシア革命の力関係に重要な影響を与えた。

二月革命後の政治構造と社会不安

七月暴動を理解するためには、ニコライ2世の退位後に成立したロシア臨時政府と、労働者・兵士代表からなるソヴィエトとの「二重権力」体制を押さえる必要がある。臨時政府は資本家・自由主義勢力を基盤とし、戦争の継続と秩序維持を重視したのに対し、多くの労働者や兵士は即時講和・土地の再分配・生活改善を求めていた。この乖離が、都市のストライキや兵士の動揺として現れ、1917年夏までにペトログラードの政治状況は極めて不安定になっていったのである。

第一次世界大戦と兵士・労働者の不満

1914年に始まった第一次世界大戦は、ロシアの経済と社会に壊滅的な打撃を与えた。戦死者や負傷者は膨大な数に達し、都市では食料・燃料不足とインフレが深刻化した。二月革命後も戦争は継続され、臨時政府は連合国との約束を理由に講和を拒んだため、前線の兵士と後方の住民の失望はさらに強まった。こうした状況は、後に講和と民族自決を掲げる政策が提示される第一次世界大戦の終結以前から、すでにロシア社会を根底から揺るがしていたと言える。

ボリシェヴィキの台頭と四月テーゼ

亡命先から帰国したレーニンは、1917年4月の「四月テーゼ」で臨時政府へのいかなる支持も拒否し、「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンを打ち出した。これは、ソヴィエトを基盤とするボリシェヴィキが、将来的に独自の社会主義革命を目指す方針を明確化したものであった。春から夏にかけてボリシェヴィキは都市労働者や兵士の間で影響力を増し、ペトログラードの一部の部隊や工場委員会は、すでに臨時政府よりもボリシェヴィキに忠誠を寄せるようになっていた。この急速な支持拡大が、やがて七月暴動へと結びついていく。

七月初頭の武装デモの発端

直接の発端となったのは、ペトログラード駐屯の機関銃連隊に対する前線派遣命令であった。兵士たちは自らの部隊が首都革命防衛の要であると考え、前線送りに強く反発した。この不満は、すでに戦争と臨時政府に批判的であった工場労働者や水兵たちと結びつき、7月3日から4日にかけて、首都中心部へ向かう大規模なデモ行進となって噴出した。多くのデモ隊は武装しており、タウリダ宮殿など政治の中心に押し寄せ、ソヴィエトに政権掌握を迫ったのである。

デモの展開とボリシェヴィキの態度

当初ボリシェヴィキ指導部は、自党が十分な全国的支持と準備を欠いているとして、時期尚早の蜂起に慎重であった。しかし、すでに街頭に出ていた兵士や労働者がボリシェヴィキの旗やスローガンを掲げて行進したため、党は彼らを放置すれば運動が無秩序な暴発に終わると判断し、デモの指導に乗り出した。レーニンは群衆に対し、臨時政府の打倒ではなく、平和的な圧力による権力移行を訴え、党の統制下に運動をとどめようとしたが、現場では銃撃や暴行を含む散発的な衝突が発生し、首都の秩序は大きく揺らいだ。

主要な参加勢力

  • ペトログラード駐屯の兵士、とくに機関銃連隊の兵士
  • 首都の工場に働く労働者
  • 急進的傾向を持つバルト艦隊・クロンシュタットの水兵
  • ボリシェヴィキ党員や同調する社会主義者

臨時政府とソヴィエト多数派の反撃

デモが武装性を帯びるにつれ、臨時政府とソヴィエト多数派(社会革命党・メンシェヴィキ)は、運動を「無責任な暴動」として非難し、鎮圧に踏み切った。臨時政府内で影響力を増していたケレンスキーらは忠誠的な部隊を首都に集結させ、街頭のデモ隊を武力で解散させた。同時にボリシェヴィキに対する攻撃キャンペーンが展開され、レーニンにはドイツの手先であるとの嫌疑がかけられた。党本部や新聞社は家宅捜索を受け、多くの活動家が逮捕され、レーニン自身も地下に潜行を余儀なくされた。

七月暴動の挫折と一時的な反動

鎮圧の結果、七月暴動は臨時政府の権威を揺るがしつつも、権力交代には結びつかなかった。逆にボリシェヴィキは一時的に「敗北者」とされ、ソヴィエト内部での発言力も縮小した。臨時政府は新たな連立内閣を組織し、形式的には体制を立て直したかに見えた。しかし、戦争継続と社会経済問題は依然として解決されず、その後のコルニーロフ事件や農民蜂起の拡大を通じて、政府への不信はむしろ深まっていったのである。

十月革命への前段階としての位置づけ

七月暴動は、後にボリシェヴィキが武装蜂起によって政権を奪取する第2次ロシア革命の直接の前段階と評価されることが多い。7月の経験を通じて、ボリシェヴィキは拙速な行動の危険と、全国的・組織的な準備の必要性を痛感した。また、鎮圧後も都市の労働者や兵士の間では臨時政府への不信が一層強まり、ソヴィエトに権力を集中させるという構想への支持が広がっていった。こうして、秋までにボリシェヴィキはソヴィエトで多数派を獲得し、最終的にソヴィエト政権樹立へと踏み出す条件が整えられていったのである。