二重権力|革命期ロシアの並立支配

二重権力

二重権力とは、同一の国家や社会の内部に、互いに競合する権力中心が同時に存在し、一方が旧秩序を引き継ぎつつ、他方が新たな革命的秩序の担い手として台頭している状態を指す概念である。とくに1917年のロシアにおいて、臨時政府とペトログラード・ソヴィエトという2つの権力が併存した状況を説明するために用いられ、ロシア革命期の政治構造を理解する鍵となっている。この状態は安定した権力分立ではなく、どちらか一方が他方を押しのけて最終的な主権を掌握するまでの過渡的局面であり、社会の方向性をめぐる激しい政治闘争が集中する舞台でもあった。

ロシア革命と二重権力の成立

二重権力という言葉が典型的に語られるのは、1917年2月革命後のロシアである。ツァーリ体制が崩壊すると、自由主義的な政治家や元ドゥーマ議員を中心に臨時政府が樹立され、名目上の国家主権と国際的承認を握った。他方で、ペトログラードでは労働者・兵士代表からなるソヴィエトが再建され、大衆運動の現場に根ざした実力を背景に、工場や兵営、街頭で実効的な影響力を行使した。このとき、戦争継続や土地改革、労働条件などをめぐり、臨時政府の政策は民衆の期待としばしば乖離し、ソヴィエトは大衆の不満や要求を吸収する場となったため、政治的正統性は両者のあいだで揺れ動いた。

こうした状況は、旧体制の崩壊後に新たな権力構造がまだ確立していない「革命の空白期」に特有である。ロシアでは、戦時下という緊急事態のなかで、前線の兵士や都市の労働者が政治主体として急速に台頭し、従来の国家官僚や自由主義エリートと並び立つことで二重権力が形成された。この構図は、後の政治思想においても「民衆権力」と「国家権力」の緊張関係を論じる際の典型例としてしばしば参照され、権力の主体を問う議論ではサルトルニーチェなど近現代の思想家が展開した人間の自由・主体性の問題とも接続して理解されることがある。

臨時政府とソヴィエトの権力構造

2月革命後の臨時政府は、旧体制から行政機構や外交権限を引き継ぎ、連合国との約束に基づいて戦争継続を宣言した。形式的にはこの政府が「合法的国家権力」であり、官僚機構や軍の上層部、資本家層など社会の上部構造からの支持を受けていた。しかし、前線の兵士や都市住民にとって最も切実な問題は、戦争の早期終結、土地の再分配、生活の安定であり、臨時政府はこれらの要求に対して決定的な解決策を示すことができなかった。

これに対し、ペトログラード・ソヴィエトをはじめとする各地のソヴィエトは、兵士・労働者の代表を通じて兵営や工場の現場を統制し、しばしば臨時政府の命令に対抗する決議を発した。兵士はソヴィエトの命令がなければ戦線への移動を拒否し、労働者はストライキや職場占拠の権利をソヴィエトを通じて主張したため、実力行使の面ではソヴィエトが優位に立つ場面も多かった。このように、名目上の国家主権と、街頭・工場・兵営における実力とが別々の組織に分かれて存在したことこそが二重権力の核心であり、権力の源泉がどこにあるのかという根本問題を社会全体に突きつけたのである。

このときロシアの知識人の一部は、既存の国家装置と大衆運動の乖離を、近代社会における「疎外」の問題としても捉えた。後の時代には、実存やニヒリズムを論じたサルトルニーチェの思想が紹介され、権力の空洞化や価値の転換というテーマが、革命期ロシアの経験と重ねあわせて読まれるようになった点も注目される。

ボルシェヴィキの戦略と二重権力の克服

ボルシェヴィキの指導者レーニンは、亡命先から帰国するとすぐに「四月テーゼ」を発表し、臨時政府へのいかなる支持も拒否しつつ、全権力をソヴィエトに移すべきだと主張した。彼にとって二重権力は、一時的な妥協の産物ではなく、いずれ決着をつけねばならない「決定的な対立」であり、社会主義革命へ至る過程における必然的な段階と理解された。ボルシェヴィキは、戦争反対や土地の即時没収といった急進的スローガンを掲げることで、ソヴィエト内部での影響力を徐々に拡大していった。

とくに1917年夏のコルニーロフ事件では、軍上層部による反革命的なクーデタの危機が生じ、ソヴィエト勢力とボルシェヴィキはそれに対抗する防衛戦に動員された。この過程で臨時政府の権威はさらに失墜し、ソヴィエト内部で急進勢力の発言力が強まる。レーニンは、この権力均衡の変化を捉え、「権力奪取の機は熟した」として武装蜂起に向けた準備を加速させた。ここでは、権力がどのようにして形式的合法性から実質的支配へと移行するのかという問題が先鋭に浮かび上がり、のちに多くの政治思想家や哲学者、たとえばサルトルニーチェといった人物が、暴力・革命・主体性といった主題をめぐって思索を深める際の重要な参照点ともなった。

  • 二重権力は、旧支配層と新興勢力が併存する過渡期の権力構造であること
  • 名目上の合法性と、街頭や現場における実効的な支配力が分離していること
  • どちらの陣営も自らを「国民の真の代表」と主張し、正統性を競い合うこと
  • 最終的には、一方が他方を打倒・吸収することで権力の統一が回復されること

二重権力の崩壊と歴史的意義

1917年10月、ボルシェヴィキはペトログラード蜂起を成功させ、臨時政府は事実上打倒された。これにより二重権力は解消され、ソヴィエト政権が国家権力を一手に掌握することになった。ただし、その後のロシア内戦や一党独裁の過程では、ソヴィエトが持っていた草の根の自治的性格は徐々に失われ、革命初期に見られた多元的な権力源泉は収斂していった。この矛盾は、革命が掲げた「民衆の権力」が、どの程度まで維持されたのかという歴史的評価とも結びついている。

二重権力の概念は、その後のドイツ革命や他地域の革命運動を分析する際にも援用され、旧秩序と新秩序のせめぎ合いを描く枠組みとして用いられてきた。また、現代の社会運動論や政治哲学においても、国家権力とは別の場所に形成されるオルタナティブな公共圏や自治空間を考える手がかりとして、この歴史的経験が参照されることがある。そこでしばしば問題となるのは、制度化された権力への参加と、その外部からのラディカルな批判とのあいだで、いかにバランスをとるかという点であり、この論点はサルトルニーチェらが提示した近代主体の自由や道徳価値の再評価とも通じるテーマである。

政治思想史における位置づけ

政治思想史の観点から見ると、二重権力は単にロシア革命期の特殊な現象ではなく、近代以降の社会における権力の多元性と不安定性を象徴する概念である。国家・政党・社会運動・自治的共同体といった多様な主体が、それぞれ異なる正統性を主張しながらせめぎ合う状況は、20世紀以降の多くの社会で繰り返し現れてきた。こうした状況を理論的に把握しようとする試みの中で、道徳・宗教・価値の転換を論じたサルトルニーチェの議論は、権力の基盤が単なる法制度や暴力装置だけでなく、人間の意識や価値観の変化に深く根ざしていることを示すものとして読み直されている。ロシアにおける二重権力の経験は、こうした広い視野からもなお検討され続けているのである。