モンテーニュ|ク・セ・ジュ,私はなにを知るのか

モンテーニュ Michel de Montaigne 1533-1592

モンテーニュは、フランスの思想家、モラリスト主著『エセー』。フランス法服貴族の裕福な家に生まれる。6歳で、ボルドーのギィエンヌ学院に入学し、古典の教養を身につけ、ボルドー大学、トゥールーズ大学で法律を学び、21歳で父の後任としてボルドー高等法院裁判官に勤めた。38歳で引退し、屋敷内の塔にこもって読書と思索にふけりながら『エセー』を執筆する。その後、ボルドー市長を4年間つとめる。モンテーニュは、各地を旅行して見聞を広めた。「私は何を知るか」(ク・セ・ジュ)という命題を掲げ、物事を常に疑い、独断論を避けながら、より深い真理を探究する懐疑主義の立場に立つ。寛容の精神の大切さと神の創造した自然の恵みを感謝の気持ちで受け入れ、喜びをもって人生を享受すベきことを説き、フランスの平和を説いた。

モンテーニュ

モンテーニュの生涯

1533年 南仏ボルドーで生まれる
1554年 ボルドー高等法院裁判官就任
1570年 裁判官を辞任、屋敷内に戻る。
1570年 『エセー』を書き始める
1581年 ボルドー市長として活躍する
1588年 『エセー』全3巻を刊行
1592年 死去

モンテーニュとユグノー戦争

16世紀のフランスでは、シャトーブリアン勅令(1551年)からプロテスタントが全面禁止されたことから、ユグノーと呼ばれるプロテスタント(新教徒) とカトリック(旧教徒)が争うユグノー戦争 (1562〜98)と呼ばれる宗教戦争が長期間に渡って続いた。モンテーニュは、隣人愛を掲げる同じキリスト教徒でありながら、戦争で血を流すことに悲観し、親交のあったユグノー派のナヴァール公アンリ(のちのアンリ4世)とカトリックの国王との調停をはかった。

「ク・セ・ジュ(私は何を知るか)」

モンテーニュ懐疑主義を端的に表す言葉。各地を旅行したり、古典を学んだり、そして、プロテスタントとカトリックのユグノー戦争の渦中で、人生や世界を常に流動し変化する恒常性のないものだと理解した。人間にとって、このような人生や世界を理解するようなことは不可能であり、「ク・セ・ジュ(私は何を知るか)」という命題のもと、すべてを常に疑い、独断や決めつけを避けて真理を追求しつづけない、と説いた。

世の中の人びとは、いつも自分のまっすぐ前の方を見つめる。私の方は自分の視線を内側に向け、そこにそれを植えつけ、そこに落ち着かせる。誰もが自分の前を見つめるが、私の方は自分の中を見つめる。私は、自分にしか用がない。自分をたえず考え、検討し、貯味する。他の人びとは、いつも他へ出かける。(『エセー』モンテーニュ)

懐疑主義

モンテーニュは常に懐疑主義の立場に立つ。人間の感覚や理性によっては、普遍的で絶対的な真理を知ることはできない。安易に真理を見つけられないと断定するものではなく、常に疑いを持ちながら、真理を探求し続け、謙虚な姿勢で探究し続けなければならないとした。

寛容さ

モンテーニュは、古典や歴史を学ぶ中で、そしてユグノー戦争の渦中、人間の独断的で偏狭な心が、宗教戦争やスペインによるインカ帝国の滅亡など、数々の戦争や残虐な事件をもたらしたと批判した。特にユグノー戦争では隣人愛をキリスト教徒同士の宗教戦争である。我々は偏狭な心を捨て、独断や極端に走らずに、すべてを価値あるものとして受け入れる寛容の精神こそが人間にとって必要であると説いた。

『エセー』(『随想録葵』)Essais

モンテーニュの主著で、晩年まで書き込まれて増補された。全三巻からなる。モンテーニュの人生に渡って加筆・追記されつづけられており、その時折のモンテーニュの思想の遍歴がわかる。ストア派、懐疑主義エピクロスなどの影響がみられる。

タイトルとURLをコピーしました