ブレスト=リトフスク条約|ロシアの戦争離脱を決めた講和

ブレスト=リトフスク条約

ブレスト=リトフスク条約は、ロシアのボリシェヴィキ政権(のちのソヴィエト=ロシア)と、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー・オスマン帝国など中央同盟国とのあいだで締結された講和条約である。日付は1918年3月3日であり、場所はロシア語でブレスト=リトフスクと呼ばれた都市(現在のベラルーシ西部ブレスト)であった。この条約によってロシアは第一次世界大戦から離脱する代償として、ポーランドやバルト地域、ウクライナなど広大な領土と人口を放棄し、きわめて不利な条件を受け入れた。ブレスト=リトフスク条約は、戦争終結過程における「別個講和」の典型として、また東欧・ロシア世界秩序を大きく変える転換点として位置づけられる。

成立の背景

1914年に勃発した第一次世界大戦でロシア帝国は、東部戦線でドイツ軍との消耗戦を続けるうちに、兵士の士気低下と経済の混乱、食糧不足に苦しむようになった。この戦争疲弊のなかで1917年2月に二月革命が起こり、さらに同年10月に十月革命が発生してボリシェヴィキ政権が成立すると、新政府はただちに戦争からの離脱を最優先課題とした。レーニンは「平和についての布告」によって無併合・無賠償・民族自決の原則に立つ講和を提唱し、これがドイツ側との講和交渉に結びついていく。

交渉の経過

休戦は1917年12月にまとまり、間もなくブレスト=リトフスクで正式交渉が開始された。初期の交渉では、トロツキーが「戦争もせず、平和も結ばず」という独特の方針を掲げ、ドイツ側に譲歩を迫ろうとしたが、ドイツはなお軍事的優位をいかして強硬な条件を提示した。交渉が長引くとドイツ軍は1918年2月に攻勢を再開し、ロシア領深くへ進撃したため、レーニンは領土喪失を承知での講和受諾こそが政権維持の唯一の道であると主張した。党内には左派共産主義者を中心に抵抗もあったが、最終的に中央委員会はレーニン案を僅差で承認し、ブレスト=リトフスク条約締結へと進んだ。

条約の主要内容

ブレスト=リトフスク条約は、ロシアに対してきわめて厳しい条件を課した条約であり、その要点は以下のように整理できる。

  • ロシアはポーランド、リトアニア、クールラント、リヴォニア、エストニアなど西方領土に対する権利を放棄し、これら地域は事実上ドイツの勢力圏に編入された。
  • ロシアはウクライナ人民共和国の独立を承認し、ドイツ側との間で穀物供給など経済的義務を負った。
  • ロシアは南カフカスのカルス・アルダハン・バトゥムをオスマン帝国に割譲した。
  • ロシアは軍隊の動員解除と黒海艦隊の一部引き渡しなど、軍事面でも大幅な譲歩を行った。

その結果、ロシアは帝政期領土のおよそ1/4の人口と工業生産力、穀倉地帯の相当部分を失うことになり、経済的・軍事的打撃は甚大であった。

ロシア革命と内政への影響

ブレスト=リトフスク条約は、ロシア革命の行方にも深い影響を与えた。ボリシェヴィキ政権内部では、領土放棄をめぐって激しい論争が起こり、左派社会革命党や党内左派は革命の国際的拡大を優先し、対独戦争継続を主張した。一方レーニンは、まず国内での権力掌握と農民への土地分配、のちの戦時共産主義など革命の深化に集中するためには、一時的な「屈辱的講和」を受け入れるほかないと説いた。この選択は短期的には中央同盟国に有利な秩序を認めるものであったが、ボリシェヴィキにとっては内戦に対応する時間と余力を確保する手段でもあった。

東欧・バルト地域と民族自決

ブレスト=リトフスク条約によるロシアの後退は、東欧やバルト地域における国家形成と民族自決の動きを加速させた。ロシアからの離脱はドイツの保護下で進んだ面が強いものの、戦後にはフィンランドの独立ポーランドの独立、さらにバルト三国の独立など、独立国家の成立へとつながっていく。これらの地域では、ドイツが敗北したのち勢力の空白が生じ、ソヴィエト政権とのあいだで内戦や国境紛争が続いたが、最終的には多くの地域が独立を維持し、東欧の国際秩序再編の重要な一段階となった。

条約の破棄と国際的評価

1918年11月にドイツで十一月革命が起こり、ドイツ帝国が崩壊すると、中央同盟国側の軍事的優位は一挙に失われた。休戦条約およびその後の講和過程のなかで、ブレスト=リトフスク条約は事実上無効となり、ソヴィエト政権も同条約の破棄を宣言した。その後、旧ロシア帝国領の一部はソヴィエト側に再編入され、他方でいくつかの独立国はヴェルサイユ体制のもとで国際的承認を受けた。歴史的にみれば、ブレスト=リトフスク条約は、ボリシェヴィキ政権が政権維持と革命存続のために払った代償であると同時に、戦後ヨーロッパの国境線と国家構成を大きく変える契機となった条約として評価されている。