ブリアン=ケロッグ協定
ブリアン=ケロッグ協定は、1928年にパリで調印された国際条約であり、国家が戦争を国際紛争解決の手段として用いることを放棄すると宣言したものである。一般に不戦条約、あるいはパリ不戦条約とも呼ばれ、第一次世界大戦後の平和追求の流れの中で生まれた画期的な試みであるが、強制力や制裁規定を欠いていたため、その実効性には限界があった。それでも、この協定は後の国際法発展や国際連盟体制、さらには戦後の国際連合憲章へとつながる「戦争違法化」の理念を示した点で重要な位置を占めている。
成立の背景
ブリアン=ケロッグ協定の成立背景には、第一次世界大戦の惨禍への深い反省と、戦後ヨーロッパの不安定な国際秩序があった。戦後のヴェルサイユ条約体制は、敗戦国ドイツへの厳しい賠償や軍備制限を定めたが、これが不満と緊張を生み、安定した平和にはつながらなかった。フランスは安全保障を強化しようとし、ドイツは国際的復権と条約改正を求めるなど、利害は鋭く対立していた。その中で、フランス外相ブリアンは新たな安全保障策として、アメリカ合衆国との二国間の不戦条約構想を提案し、これがやがて多国間条約へと発展していく。
ブリアンとケロッグの役割
フランス外相アリスティッド・ブリアンは、自国の安全保障の確保とヨーロッパの安定を目指し、アメリカとの恒久的平和をうたう条約を構想した。一方、アメリカ国務長官フランク・B・ケロッグは、ヨーロッパ諸国間の複雑な同盟関係に巻き込まれることを警戒し、二国間ではなく広く諸国が参加する多国間条約とすることで、アメリカの立場を守りつつ平和への貢献を図ろうとした。こうして、ブリアンの提案はケロッグによって修正され、より普遍的な不戦条約案として各国に提示されることとなった。
協定の内容と条文の特徴
ブリアン=ケロッグ協定の条文は簡潔であり、主に次のような点に特徴がある。
- 締約国は、国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることを非難し、これを放棄することを宣言する。
- 締約国は、相互間の紛争を平和的手段によってのみ解決することを約束する。
しかし、協定は「侵略」や「自衛」の概念を明確には定義せず、違反した場合の制裁措置も規定していなかった。そのため、実際には各国が自衛権を広く解釈し、武力行使を正当化する余地を残す結果となった。にもかかわらず、戦争を法的に否定するという発想は、それまでの「戦争は国家の権利」という伝統的観念を揺さぶる試みであった。
署名国と国際政治への影響
ブリアン=ケロッグ協定は、1928年8月にパリで調印され、当初はアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本など15か国が参加した。その後、多くの国が順次参加し、最終的には世界の主要国の大半が締約国となった。これにより、名目上は世界的規模で戦争放棄の原則が共有されたことになる。協定は、各国が自らの外交姿勢を「平和志向」として示す象徴的な役割を果たし、軍縮会議やジュネーヴ海軍軍縮会議など、軍縮・平和外交の機運を後押ししたと評価される。
ロカルノ体制・国際連盟との関係
ブリアン=ケロッグ協定は、ヨーロッパの安全保障構想であるロカルノ条約およびロカルノ体制、そして国際連盟の枠組みと密接に関連していた。ロカルノ体制は、ドイツと周辺諸国の国境を保障し、戦後秩序を安定させようとする試みであったが、その保証は主に特定地域に限られていた。これに対し、ブリアン=ケロッグ協定は地域を限定せず、世界規模で戦争放棄を宣言しようとした点に新しさがある。ただし、国際連盟規約や既存の集団安全保障の仕組みと十分に連動しておらず、制度的な裏付けが弱かったため、実際の抑止力としては限定的であった。
限界と第二次世界大戦への道
理念的には先進的であったものの、ブリアン=ケロッグ協定には重大な限界があった。協定は、違反国に対して具体的な制裁措置を規定しておらず、また武力行使が自衛か侵略かを判断する客観的基準も欠いていた。そのため、1930年代に入ると、日本の中国侵略やドイツ・イタリアの侵略行為など、多くの戦争が自衛や民族自決の名目で正当化されてしまう。こうした事態は、紙の上で戦争を禁じるだけでは平和は守れないことを示し、第一次世界大戦後に築かれたヴェルサイユ条約体制とともに、この協定の限界を浮き彫りにした。
歴史的意義とその後の国際法
それでも、ブリアン=ケロッグ協定の歴史的意義は小さくない。この協定は、戦争そのものを違法とみなす考え方を国際社会に広く浸透させる契機となり、第二次世界大戦後の国際連合憲章における武力行使の禁止原則へと受け継がれた。また、戦後のニュルンベルク裁判では、侵略戦争を企画・遂行した指導者の責任を問う際に、この協定が「平和に対する罪」の法的根拠の一つとして引用されたとされる。こうして、協定は実務面での抑止力には乏しかったものの、戦争を政府の正当な政策手段とみなす時代から、戦争を違法視し、その責任を個人にも問う時代への転換を象徴する重要な一里塚となったのである。