パリ不戦条約
パリ不戦条約は、1928年にアメリカとフランスの提案にもとづいて締結された多国間条約であり、国家が戦争を国策の手段として用いることを放棄すると宣言した協定である。この条約は、第一次世界大戦の惨禍を背景に、戦争そのものを違法化しようとした点で画期的であり、その後の国際連合憲章や国際法の発展にも大きな影響を与えたと評価されている。
成立の背景
パリ不戦条約が構想された背景には、数千万の死傷者を出した第一次世界大戦への深い反省があった。戦後、戦争再発を防ぐために国際連盟が設立され、さらにはワシントン会議やロカルノ条約など、一連の軍縮・安全保障体制が模索された。しかし、これらは主として軍備制限や国境保障など個別問題への対応にとどまり、戦争そのものを法的に否定するまでには至らなかった。そのなかで、戦争放棄を国際法上の原則とする構想が生まれ、やがて条約として結実していくのである。
提案から締結までの経過
パリ不戦条約の構想は、フランス外相ブリアンがアメリカとの二国間条約として戦争放棄協定を提案したことから始まる。これに対し、アメリカ国務長官ケロッグは、二国間にとどまらず、より多くの国家が参加する多国間条約とする案を提示した。こうして交渉は拡大し、多数国参加の戦争放棄条約が各国に提案されることになった。最終的に、1928年8月、パリで主要国が署名し、条約は成立したため、地名をとってパリ不戦条約と呼ばれるようになった(英語名はケロッグ=ブリアン条約である)。
条約の内容
パリ不戦条約の本文は比較的短く、その中心となる内容は次のように整理できる。
- 締約国は、戦争を国家政策の手段として用いることを非難し、これを放棄する。
- 締約国相互の紛争は、平和的手段によって解決する。
- 条約はすべての国家に加入の門戸を開き、普遍的な適用をめざす。
このように、パリ不戦条約は、侵略戦争だけでなく、広く「戦争」を国際法上違法なものとみなそうとする点で先駆的であった。他方で、何を侵略とみなすかなどの具体的な定義や、違反した場合の強制措置については明確な規定を欠いていたことが、その後の限界として指摘される。
参加国と日本の対応
パリ不戦条約には、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本など当時の主要国が参加し、その後も多くの国家が加わった。日本政府も国際協調を掲げる外交方針のもとで条約に署名・批准し、国際社会において平和志向をアピールした。これは、ワシントン体制下での協調外交や、ヨーロッパにおける集団安全保障の動きと呼応するものであり、日本が戦間期の国際秩序の一員として位置づけられる一側面を示している。
評価と限界
パリ不戦条約は、戦争の違法化を宣言したという点で、国際法史上きわめて重要な意味を持つ。各国政府は条約の批准を通じて、戦争放棄の理念を公式に承認し、その後の国際世論もまた、侵略戦争を非難する方向へと傾いていった。他方で、条約は「自衛」の名のもとに行われる戦闘行為をどこまで禁じるのかを明確にしなかったため、各国は自らの軍事行動を「自衛戦争」と主張しうる余地を残していた。その結果、日本の満州事変、イタリアのエチオピア侵攻、さらにはドイツの侵略行為など、後の現実の国際政治は条約の理念と大きく乖離し、やがて第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできなかったのである。
その後の国際秩序への影響
パリ不戦条約は、直接的には戦争の勃発を阻止できなかったものの、戦争を違法とみなす考え方を国際社会に定着させる役割を果たした。その理念は、戦後に成立した国際連合憲章の「武力行使の禁止」原則に受け継がれ、戦争を例外的な自衛権行使などに限定しようとする法的枠組みへと発展していく。また、戦間期の集団安全保障構想や、ヨーロッパにおける安全保障体制の模索とも相まって、戦争責任や侵略概念を問う後世の裁きの基準を形作った点でも重要である。この意味で、現代の国際秩序における平和主義と武力行使規制の源流の一つとして、パリ不戦条約は依然として大きな歴史的意義を有している。