ブリアン|フランス外相 不戦条約提唱

ブリアン

アリスティッド・ブリアンは、フランス第三共和政期を代表する政治家であり、複数回にわたって首相や外相を務めた人物である。とくに1920年代のヨーロッパ国際政治において、ドイツとの協調を軸とする平和外交を主導し、ロカルノ条約や国際連盟の枠組みを通じて戦後秩序の安定化を図ったことで知られる。また、アメリカ国務長官ケロッグとのあいだでブリアン=ケロッグ協定を結び、戦争の違法化という理念を国際的に提示した点でも重要な歴史的意義をもつ人物である。

出自と政界進出

アリスティッド・ブリアンは1862年、フランス西部の港町ナント近郊に生まれた。若いころは法律を学び、弁護士やジャーナリストとして社会問題にかかわりながら、急速に進行する工業化と都市化のなかで広がる社会的不平等に強い関心を抱いた。第三共和政下のフランスでは、労働運動や社会主義思想が台頭し、のちに第一次世界大戦へとつながる国際情勢の緊張も高まりつつあったが、ブリアンはこうした状況のなかで穏健な社会主義政治家として頭角を現した。やがて彼は下院議員に選出され、議会政治の中心に進出していく。

政教分離法と国内政治

ブリアンがフランス国内政治において名を高めた契機のひとつが、1905年の政教分離法の制定である。第三共和政ではカトリック教会と国家の関係をめぐって激しい対立が続いていたが、報告者として法案作成に深く関与したブリアンは、宗教の自由を保障しつつ国家から教会を切り離す「ライシテ(世俗主義)」の原則を制度化した。この政教分離法は、その後のフランス政治文化を特徴づける基本原則となり、20世紀を通じてフランス社会の枠組みを形作ることになる。国内での調停型政治のスタイルは、のちに国際舞台での協調外交にもつながるものであり、彼の政治家としての一貫した姿勢を示している。

第一次世界大戦と首相としての役割

1914年に勃発した第一次世界大戦は、フランスにとって国土が戦場となる総力戦であった。戦時下でブリアンは数度にわたり首相を務め、連合諸国との協力を維持しながら「神聖な同盟」と呼ばれる国民的結束を訴えた。戦争末期には戦争長期化による疲弊や、講和条件をめぐる意見対立も深刻化したが、ブリアンは国内対立を抑えつつ戦争継続を指導した政治家の一人である。戦後はヴェルサイユ体制のもとでドイツ賠償問題が国際政治の焦点となり、フランスは安全保障と賠償確保をめぐって硬軟両様の政策を模索することになった。

ロカルノ体制と協調外交

1920年代に外相として復帰したブリアンは、戦後のヨーロッパ秩序を安定させるため、ドイツとの和解を重視する路線へと舵を切った。その成果の一つが1925年のロカルノ条約であり、ここではフランス・ドイツ・ベルギー・イギリス・イタリアが相互に国境保障と紛争の平和的解決を約束した。とくにドイツ外相シュトレーゼマンとブリアンの個人的信頼関係は、ロカルノ体制と呼ばれる1920年代後半のヨーロッパ協調を象徴するものとされる。ロカルノ体制の下でドイツは国際連盟への加盟を果たし、フランスやイギリスとともに集団安全保障の枠組みに取り込まれていった。このようにブリアンは、戦勝国フランスの安全保障とヨーロッパ協調とを両立させようとする外交姿勢を示したのである。

ブリアン=ケロッグ協定と戦争違法化の試み

1928年、ブリアンはアメリカ国務長官ケロッグとともに、いわゆるブリアン=ケロッグ協定(パリ不戦条約)の締結を主導した。この条約は、国家が戦争を国際紛争解決の手段として用いることを放棄するという原則を掲げ、多数の国々が調印した点で画期的であった。条約そのものには強制力ある制裁規定がなく、のちに日本やドイツ、イタリアなどが侵略政策を展開するとき、それを実際に阻止することはできなかった。しかしパリ不戦条約として知られるこの協定は、戦争違法化の理念を初めて包括的な条約として明文化したという意味で、後の不戦条約や国際法の発展、さらには第二次世界大戦後の国連憲章へとつながる重要な一歩であった。

ヨーロッパ連合構想とその限界

ブリアンはまた、ヨーロッパ諸国の長期的な平和と繁栄のためには、国家間の対立を超えた緊密な連携が必要であると考えた。1929年の国際連盟総会では、彼は関税や通貨、交通などの分野で協力を進める「ヨーロッパ連合」構想を提唱し、翌1930年には具体的な覚書を提出している。この構想は、のちの欧州石炭鉄鋼共同体やヨーロッパ共同体、さらには欧州連合(EU)の先駆とみなされることもある。しかし当時の各国政府は主権の制約に慎重であり、世界恐慌の余波で経済的なブロック化が進むなか、ブリアンの構想は実現には至らなかった。

ブリアンの歴史的評価

ブリアンは1932年に死去したが、その生涯はフランス第三共和政の興隆と危機、そして戦後ヨーロッパ外交の模索と密接に結びついている。1926年にはロカルノ体制の形成に貢献したとして、ドイツ外相シュトレーゼマンとともにノーベル平和賞を受賞しており、彼の協調外交が当時の国際社会から高く評価されていたことがうかがえる。他方で、ロカルノ体制やロカルノ体制、さらにブリアン=ケロッグ協定ドイツの国際連盟加盟などの試みは、最終的にはナチス・ドイツの台頭と第二次世界大戦の勃発によって挫折した。こうした結果から、彼の平和外交を「理想主義的で現実性に乏しい」とみなす見解もある。しかし、戦争放棄や集団安全保障、地域統合といった発想は、20世紀後半の国際秩序を構想するうえで欠かせない基盤となっており、ブリアンは20世紀国際政治史における先駆的存在として位置づけられている。