ヌイイ条約
ヌイイ条約は、第一次世界大戦後の講和条約の一つであり、敗戦国となったブルガリアと連合国側とのあいだで1919年に締結された条約である。戦争責任の追及とともに領土割譲・軍備制限・賠償支払いなどが定められ、ブルガリア国家の規模と国際的地位を大きく制限した点に特色がある。同じく敗戦国に対して結ばれたヴェルサイユ条約やサン=ジェルマン条約、トリアノン条約とともに、いわゆるヴェルサイユ体制を構成する重要な要素である。
成立の背景
ヌイイ条約が結ばれた背景には、同盟国側として参戦したブルガリアの敗北がある。バルカン戦争以来、ブルガリアは領土拡張と民族統一を目指し、周辺諸国と対立を深めていた。協商国軍の反攻と国内の戦争疲弊によりブルガリアは休戦を余儀なくされ、戦後処理の場であるパリ講和会議において、フランス郊外ヌイイ=シュル=セーヌで講和条約に調印することになった。
締結の経緯と場所
ヌイイ条約は1919年11月27日、フランスのヌイイ=シュル=セーヌで署名された。連合国側からはフランス・イギリス・イタリアなどの代表が参加し、ブルガリア代表団は敗戦国として厳しい条件を受け入れざるをえなかった。交渉では、戦争責任の所在や賠償能力、バルカン半島の勢力均衡が議論され、ブルガリアの将来の軍事的脅威を抑えることが主要な目的とされた。
領土条項
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ヌイイ条約により、ブルガリアはエーゲ海への出口を失い、海への直接的なアクセスを奪われた。これは通商・軍事の両面で大きな打撃であり、バルカン半島における地政学的地位を大きく低下させた。
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また、近隣諸国への国境線の修正が行われ、ブルガリア国内には多くの難民が流入した。これにより社会不安が高まり、戦後政治の不安定化を招いたとされる。
軍備制限と賠償
ヌイイ条約は軍事条項においても厳格であり、ブルガリア軍の兵力は大幅に制限され、重火器や軍備の保有にも制約が課された。これは将来の再軍備と報復戦争を防ぐ狙いがあったと理解される。同時に、戦争によって生じた損害への賠償支払いが命じられ、ブルガリア経済に長期的な負担を与えた。
ブルガリア社会への影響
ヌイイ条約は、領土縮小と経済的負担を通じてブルガリア社会に深い挫折感と不満を残した。戦争で犠牲となった人々に加え、難民問題や財政危機が国内政治を揺さぶり、急進的な政治勢力の台頭を促す一因ともなった。条約で定められた国境と軍事制限は、その後も長く「不正な講和」として記憶され、改正要求や見直し運動の背景となっていく。
ヴェルサイユ体制の中の位置づけ
ヌイイ条約は、ドイツに対するヴェルサイユ条約やオーストリアに対するサン=ジェルマン条約、ハンガリーに対するトリアノン条約などとともに、戦後ヨーロッパ秩序を定めた一連の講和条約群の一部である。これらは敗戦国に対し領土と軍事力を制限することで安全保障を図ろうとしたが、その過酷さが各国に不満と復讐感情を生み、後の国際緊張の温床となったと評価されている。