パリ講和会議|第一次大戦後の国際秩序を築いた会議

パリ講和会議

パリ講和会議は、第一次世界大戦後の講和条件を決定するために、1919年1月からフランスのパリで開かれた国際会議である。戦勝国が敗戦国に対する処遇と戦後ヨーロッパ秩序を定め、同時に世界規模の国際秩序を構想した点で、近代国際政治史の転換点となった。アメリカ大統領ウィルソンの提唱した「十四か条」と国際協調の理念は会議全体を方向づけたが、結果としては各国の利害が複雑に絡み合い、後の国際緊張の要因も生み出した会議であった。

開催の背景

パリ講和会議の背景には、1914年に勃発した第一次世界大戦の甚大な被害があった。ヨーロッパ諸国は人的・経済的損失により疲弊し、旧来の国際秩序は大きく揺らいだ。ナポレオン戦争後の秩序を築いたウィーン会議体制は事実上崩壊し、新たな国際秩序を構想する必要が生じたのである。こうした中で、アメリカ大統領ウィルソンは講和原則として十四か条を提示し、秘密外交の廃止や民族自決の尊重、国際機構の設立などを主張した。この理想主義的構想が、会議の理念的な枠組みとなった。

主要参加国と代表

パリ講和会議には、おもに連合国側の約30か国が参加したが、会議運営を主導したのは「ビッグフォー」と呼ばれる4か国であった。すなわち、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリアである。敗戦国であるドイツやオーストリアなどは当初から交渉に参加できず、条件提示の段階になって初めて呼び出されるにとどまった。また、ロシアは革命と内戦のため会議から排除された。

  • アメリカ合衆国:大統領ウィルソンが理想主義的な国際協調を主張した。
  • イギリス:ロイド=ジョージ首相が海軍力と植民地維持を重視した。
  • フランス:クレマンソー首相がドイツへの厳しい制裁と安全保障を追求した。
  • イタリア:戦時中の秘密条約に基づく領土獲得を要求した。

会議の経過と交渉の特徴

パリ講和会議では、多数の委員会や専門部会が設置され、領土問題、賠償問題、軍縮、海洋航行の自由などが個別に審議された。形式上は多国間会議であったが、実際にはビッグフォーの非公式会談が決定を左右し、とくにフランスとイギリスの思惑が強く反映されたといわれる。ウィルソンは民族自決と国際機構構想を守ろうとしたが、同時に戦勝国世論の対独感情や連合諸国の利害との妥協を迫られた。その結果、理想と現実の折衷となる決定が積み重ねられていった。

  1. 敗戦国に対する講和条件の立案
  2. 欧州・中東・アフリカなどにおける国境画定
  3. 新たな国際機構としての国際連盟設立の準備

ヴェルサイユ体制の成立

パリ講和会議のもっとも重要な成果が、ドイツとの講和であるヴェルサイユ条約であった。同条約は、ドイツに対して大幅な領土割譲、植民地の喪失、高額な賠償金、軍備制限、そして戦争責任条項を課した。また、オーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国の解体を定める諸条約も締結され、東欧や中東には新たな国境線と国家が生み出された。民族問題については民族自決の原則が一定程度採用され、ポーランドやチェコスロヴァキアなどの独立国家が誕生した一方、少数民族を抱えた新国家も多く、将来の火種を残すことになった。

さらに、ウィルソンの提案にもとづき、世界初の常設的な国際機構として国際連盟の設立が決定された。これは、紛争を平和的に解決し、集団安全保障によって戦争を防ごうとする試みであった。こうして形成された戦後秩序は、一般に「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる。

問題点と歴史的評価

パリ講和会議で形成されたヴェルサイユ体制には、発足当初から多くの矛盾が内包されていた。ドイツに対する厳しい賠償と軍備制限は、敗戦国世論に屈辱感と復讐感情を生み、後の政治的極端主義の台頭を助長したと指摘される。また、民族自決の原則は欧州では部分的に適用されたものの、植民地世界には十分に広がらず、アジアやアフリカの民族運動を刺激した。さらに、国際連盟は設立されたものの、アメリカ合衆国自身が国内の反対により加盟せず、集団安全保障の枠組みは当初から脆弱であった。

このような欠陥は、1920年代から30年代にかけて国際協調の揺らぎとして表面化し、最終的には第二次世界大戦の勃発へとつながっていく。したがってパリ講和会議は、一方で国際協調と恒久平和を目指した先駆的な試みであると同時に、過度の制裁と不完全な秩序設計によって不安定な体制を生み出した会議として評価されている。

他の講和条約との関連

パリ講和会議では、ドイツとのヴェルサイユ条約以外にも、オーストリアとのサン=ジェルマン条約、ブルガリアとのヌイイ条約、ハンガリーとのトリアノン条約、オスマン帝国とのセーヴル条約など、複数の講和条約が取り決められた。これらは、19世紀前半のヨーロッパの再編ウィーン会議が生み出した秩序を最終的に書き換えるものであり、戦後ヨーロッパと中東の政治地図を決定づけた。こうした諸条約とあわせて理解することで、パリ講和会議の歴史的意味がいっそう明確になる。