ソヴィエト=ロシア|革命政権が築く社会主義国家

ソヴィエト=ロシア

ソヴィエト=ロシアは、1917年のロシア革命十月革命の結果として成立したロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国を指す呼称である。旧ロマノフ朝の崩壊後、ボリシェヴィキが権力を掌握し、労働者・兵士・農民の評議会であるソヴィエトを基盤とする新政権が出現した時期のロシア国家を、国外では一般にソヴィエト=ロシアと呼んだ。内戦と経済混乱のただ中で新しい社会主義国家の性格が模索され、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立するまでの過渡期を示す概念である。

成立の背景

第一次世界大戦の長期化により、ロシア帝国では軍事的敗北と物資不足が深刻化し、皇帝ニコライ2世への不満が高まった。1917年2月の二月革命によって皇帝は退位し、臨時政府とソヴィエトが並立する二重権力の状況が生まれた。首都ペトログラードでは労働者や兵士がソヴィエトを組織し、臨時政府の首班となったケレンスキーは戦争継続と秩序維持を図ったが支持を失った。この不安定な政治情勢のなかで、レーニン率いるボリシェヴィキが「平和・土地・パン」を掲げて勢力を伸ばし、十月の武装蜂起によって政権を掌握する土台が形成されたのである。

ロシア革命との関係

ソヴィエト=ロシアという呼称は、とくに十一月革命後、ボリシェヴィキ政権が国際的にまだ十分承認されていなかった段階の国家を示すときに用いられることが多い。西欧諸国の政府は新政権を「ボルシェヴィキ政権」あるいは「ソヴィエト=ロシア」と呼び、旧ロシア帝国との連続性を限定的に捉えた。後の第2次ロシア革命と呼ばれる体制変容までを視野に入れると、この呼称は帝政ロシアからソ連成立へと至る長期的変化の一段階を示す歴史用語であると理解できる。

政治体制とソヴィエト政権

ソヴィエト=ロシアの政治体制は、ソヴィエト(評議会)を名目上の最高権力機関とする「ソヴィエト民主主義」を掲げていた。全国のソヴィエト代表が集まる全ロシア=ソヴィエト会議が国家の最高機関とされ、その決定を執行する人民委員会議が政府として機能した。実際には、ボリシェヴィキ党が主要ポストを独占し、党の指導部が国家を指導する体制が急速に強まった。とくにレーニンは人民委員会議議長として、新しい法制度や土地の国有化、工場の労働者管理などを進め、社会主義的改革を断行した。こうした体制は、のちにソヴィエト政権と呼ばれ、ソ連時代を通じて続く統治の枠組みの原型となった。

内戦と戦時共産主義

ソヴィエト=ロシアの成立直後から、旧帝政将軍や反ボリシェヴィキ勢力による「白軍」と、新政権を支持する「赤軍」とのあいだで激しいロシア内戦が勃発した。赤軍の組織化には、人民委員会議軍事人民委員として活躍したトロツキーが大きな役割を果たした。各地では民族運動や外国軍の干渉も重なり、国家の統合そのものが脅かされたため、政府は工業の全面的国有化や農民からの穀物強制徴発など「戦時共産主義」と呼ばれる非常措置を導入した。これにより赤軍は物資を確保し内戦には勝利したが、農村では反発と生産意欲の低下を招き、都市でも生活水準が急激に悪化した。

  • 主要都市での食糧不足と配給制の強化が進み、都市住民の離農が拡大したのである。
  • 産業生産は戦前水準を大きく下回り、内戦末期には国家経済が崩壊に近い状態に追い込まれた。

ネップと経済再建

内戦終結後も、戦時共産主義の継続は社会不安を激化させた。このため政府は1921年、第10回党大会で新経済政策(NEP)への転換を決定した。NEPのもとでソヴィエト=ロシアは、農民による余剰農産物の自由販売や小規模私企業の営業を一定程度認め、市場メカニズムを部分的に復活させた。重工業や交通など戦略部門は国家管理下に維持されたが、農業生産は回復に向かい、都市の商業活動も徐々に活気を取り戻した。この過程は、革命理念と現実の経済運営との折り合いを模索した段階として重要であり、のちにスターリン期へとつながる経済体制の前提となった。

ソヴィエト連邦への移行

旧ロシア帝国領では、民族ごとに複数のソヴィエト共和国が成立しており、それらをどのような形で統合するかが大きな課題であった。1922年、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国を中心にウクライナ・ベラルーシなどの共和国が合体し、ソヴィエト社会主義共和国連邦が創設された。このときソヴィエト=ロシアは、連邦を構成する最大の共和国として位置づけられ、その政治的・経済的優位はソ連時代を通じて続いた。こうして、帝政崩壊から十月革命、内戦、NEPを経た変革の時代は、ソ連という新たな国家枠組みへと収束し、ソヴィエト史の次の段階へ移行していったのである。