イタリアのアフリカ侵出|後発帝国のアフリカ進出

イタリアのアフリカ侵出

19世紀後半から20世紀前半にかけてのイタリアのアフリカ侵出は、国民国家として統一を成し遂げたばかりのイタリア王国が、列強の一員として帝国主義的な「アフリカ分割」に参加しようとした試みである。イギリスやフランスがアフリカ大陸の広大な領域を支配し、ドイツもドイツのアフリカ進出を進めるなかで、イタリアは紅海沿岸(エリトリア・ソマリア)と北アフリカ(リビア)、さらにはエチオピアへと進出し、数度の戦争と植民地支配を展開した。

国民国家イタリアと帝国主義の文脈

1861年に統一を達成したイタリア王国は、ドイツ帝国と同様に「後発国民国家」であり、19世紀末には列強と肩を並べるための象徴として植民地獲得を重視した。国内産業はイギリスやフランスに比べて未発達であったが、政治家や軍部は国威発揚と国際的威信のため、また過剰人口の移民先確保のためにアフリカ植民地を求めた。こうした動きは、イギリスの「カイロ=ケープ」構想やフランスの「西から東へのアフリカ横断政策」と同時期に進み、列強間の植民地競争の一部として位置づけられる。

紅海沿岸への進出とエリトリア植民地

イタリアのアフリカ進出の出発点は紅海沿岸である。1869年のスエズ運河開通後、この地域は地中海とインド洋を結ぶ要衝となり、イタリアは民間の貿易会社を通じて紅海沿岸に拠点を築いた。1885年にはマッサワを占領し、周辺地域への軍事的支配を拡大していく。やがてイタリアはこの地域を「エリトリア植民地」として正式に併合し、港湾・鉄道などのインフラ整備とともに定住植民を進めていった。ここでの支配は、のちの「イタリア領東アフリカ」形成の基盤となった。

他列強との競合と東アフリカ情勢

同じ時期、ドイツはタンガニーカを中心とする東アフリカ植民地を建設し、イギリスもケニアやウガンダへと勢力を伸ばしていた。これらの動きは、後にイギリスとフランスがナイル川流域で衝突したファショダ事件などの対立に結びつくが、イタリアもまたこの東アフリカ情勢の中で、自国の勢力圏を確保しようと行動していたのである。

ソマリア支配の展開

イタリアは紅海沿岸からさらに南下し、インド洋に面するソマリア沿岸にも進出した。19世紀末には、現地の支配者との保護条約を通じて沿岸部の支配権を獲得し、20世紀初頭には内陸部へも影響力を拡大する。ソマリアでは、当初は商業拠点の確保が目的であったが、やがて軍事占領と行政組織の整備が進み、正式な植民地として再編されていった。こうして「イタリア領ソマリランド」は、エリトリアと並ぶイタリア東アフリカの柱となった。

エチオピア遠征とアドワの敗北

イタリアの野心は、独立を維持していたキリスト教王国エチオピアにも向けられた。19世紀末、イタリアは条約を通じて保護権獲得を主張したが、エチオピア側との解釈の違いから対立が深まり、1895年に伊エ戦争が起こる。1896年のアドワの戦いでイタリア軍は大敗し、エチオピア皇帝メネリク2世のもとでエチオピアの独立は国際的に承認された。この敗北はイタリアのアフリカ侵出にとって大きな挫折であり、他の列強に比べたイタリアの軍事・財政基盤の脆弱さを露呈する結果となった。

モロッコ問題との関連

同じ時期、北西アフリカではフランスとドイツがモロッコをめぐって対立し、第一次・第二次モロッコ事件アルヘシラス会議アガディール事件タンジール事件などが発生した。これらの危機がヨーロッパの国際緊張を高める一方で、イタリアは主として紅海・インド洋側とリビアに関心を集中させ、他列強との衝突を回避しつつ自らの植民地領域を拡大しようとした。

伊土戦争とリビア獲得

1911年、イタリアはオスマン帝国とのあいだで伊土戦争を開始し、北アフリカのトリポリタニアとキレナイカ(のちのリビア)を攻撃した。戦争は短期決戦を想定していたが実際には長期化し、オスマン帝国はバルカン半島情勢の悪化もあって妥協を余儀なくされる。1912年の講和により、イタリアはリビアの宗主権を獲得し、形式的にはオスマン帝国から切り離された。イタリアはこの地域を定住植民地として位置づけ、土地の収奪とインフラ建設を進め、地中海世界における自国の地位向上を図った。

ファシズム期の再侵略とイタリア領東アフリカ

第一次世界大戦後、イタリアは「勝利したのに報われない国家」という意識を強め、ムッソリーニのファシズム政権のもとで再び植民地拡張を追求した。1935年、イタリアは再びエチオピアへ侵攻し、毒ガス使用を含む苛烈な戦争を展開して1936年に占領を宣言する。エリトリアとソマリア、そして征服したエチオピアを統合して「イタリア領東アフリカ」が編成され、ローマ帝国の再現を誇示するプロパガンダが行われた。

  • エリトリア:紅海沿岸の要衝として軍事・行政拠点となった。
  • ソマリア:インド洋交易と農業開発の場として利用された。
  • エチオピア:象徴的な「帝国」征服としてファシズム体制の宣伝材料となった。

イタリア植民地支配の特徴と影響

イタリアのアフリカ支配は、フランスやイギリスに比べれば領域も期間も限定的であったが、現地社会に深い影響を残した。リビアやエリトリアでは広大な土地が没収され、イタリア人入植者の農園が建設された結果、先住民の生活基盤は大きく揺らいだ。さらに、ファシズム期には人種差別的な法制や強制労働政策が導入され、抵抗運動と弾圧が繰り返された。第二次世界大戦の敗北により、イタリアはアフリカのすべての植民地を失ったが、エリトリア・ソマリア・エチオピア・リビアなどの地域では、国境線や都市インフラ、公用語などにイタリア支配の痕跡が残り続けている。このようにイタリアのアフリカ侵出は、後発帝国主義国家による植民地政策の典型例として、ヨーロッパ列強によるアフリカ支配の全体像の中で理解されるべき歴史現象である。