モロッコ|多文化が交差する北アフリカの王国

モロッコ

モロッコは北アフリカ西端に位置し、地中海と大西洋に面したマグリブ地域の国家である。古くからヨーロッパ、アフリカ、中東を結ぶ要衝として発展し、内陸のサハラ砂漠やアトラス山脈を通じてサブサハラとの交易を展開してきた。イスラーム世界の一角として独自の王朝と都市文明を育みつつ、近代にはヨーロッパ列強の進出と保護国化を経験し、20世紀半ばに独立を達成した国家である。

地理と自然環境

モロッコは北を地中海、西を大西洋に開き、東と南は山岳と砂漠によって区切られる。国土を縦断するアトラス山脈は気候の境界となり、北部には温暖な地中海性気候の農業地帯が広がる一方、南部はサハラ砂漠へと移行する半乾燥地域である。カサブランカやタンジェなどの港湾都市は、古来より海上交易の中心として機能してきた。

古代からイスラーム王朝の成立

古代都市とイスラーム化

古代のモロッコ沿岸部にはフェニキア人やカルタゴ人が進出し、地中海交易の拠点を築いた。その後、ローマ帝国支配下では都市ウォルビリスなどが発展し、ローマ文化とベルベル人文化が共存した。7〜8世紀になるとアラブ系征服者がこの地域に到来し、イスラームが伝播するとともに、先住のベルベル人も徐々にイスラーム社会へと組み込まれていった。

ベルベル系王朝の展開

イスラーム化後のモロッコでは、イドリース朝に始まり、ムラービト朝やムワッヒド朝などベルベル系王朝が興隆した。これらの王朝はマグリブ全域やイベリア半島の一部を支配し、宗教的改革と軍事的拡張を進めた。その後もマリーン朝やサアド朝、現在のアラウィー朝へと王朝が交代しつつ、スルタン権力を軸としたイスラーム王国としての枠組みが維持された。

ヨーロッパ勢力との接触と圧力

海上勢力の進出

中世末から近世にかけて、ポルトガルやスペインはモロッコ沿岸部に城砦や港を築き、地中海・大西洋の要地を押さえようとした。19世紀に入ると、産業革命を背景とした列強の世界進出が進み、フランスは隣接するアルジェリアチュニジアを支配下におさめ、北アフリカ全体を自国の勢力圏に組み込もうとした。同じ時期、フランスは紅海側のジブチやインド洋のマダガスカルなどにも拠点を築き、アフリカ大陸を広範に結ぶ植民地ネットワークを形成していった。

列強の勢力均衡と保護国化

19世紀末から20世紀初頭、ヨーロッパ列強は「アフリカ分割」を進め、イギリスはケープからカイロを結ぶ3C政策を構想し、フランスは西アフリカから紅海へ抜けるアフリカ横断政策を追求した。この勢力争いの中でモロッコは戦略的重要性を増し、フランスとスペイン、さらにはドイツなどが関与する外交問題となった。1906年のアルヘシラス会議などを経て、1912年にフェス条約が結ばれ、モロッコはフランスの保護国となり、一部はスペインの支配下に置かれた。

独立と現代の君主制

民族運動と独立

20世紀前半、保護国支配の下でもスルタン制は形式的に維持されたが、植民地行政が政治・経済の中枢を握った。第二次世界大戦期には民族主義運動が高まり、スルタン・ムハンマド5世も独立を支持する姿勢を示した。フランスは弾圧を行ったものの、国際情勢の変化と民族運動の高揚の中で譲歩を余儀なくされ、1956年、モロッコは主権国家としての独立を回復した。同年、スペインも大部分の支配地から撤退し、王制国家としての歩みが本格化した。

政治体制と社会変化

独立後のモロッコでは、国王を頂点とする君主制が維持されつつ、議会や政党制が整備された。冷戦期には西側諸国との関係を重視しつつ、アラブ・アフリカ諸国との連帯も図った。経済面では農業やリン鉱石輸出、観光業が主要な柱となり、都市化や人口増加に伴う社会問題への対応が課題となった。アフリカ南部の南アフリカ連邦などと同様、植民地支配の遺産と地域紛争を抱えつつも、地域大国としての役割を模索している。

文化・宗教・対外関係

モロッコの人口の大部分はイスラーム教スンナ派であり、アラビア語とベルベル諸語が使用される。旧市街メディナやモスク、マドラサ(学院)などは、イスラーム都市文化の重要な遺産である一方、フランス語教育やヨーロッパ文化の影響も根強い。対外的にはヨーロッパ・アラブ世界・アフリカを結ぶ架け橋として、政治・経済・文化の各分野で広範な関係を築いており、その歴史的経験は近代アフリカ史と植民地支配の理解において重要な位置を占めている。