タンジール事件
タンジール事件は、1905年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が北アフリカの港湾都市タンジールを電撃訪問し、当時のモロッコの独立とスルタンの主権を公然と支持した出来事である。これは、モロッコにおけるフランスの勢力拡大に挑戦し、列強間の勢力均衡を揺さぶる試みであり、のちに「モロッコ事件」あるいは「第1次モロッコ事件」と呼ばれる国際危機の発端となった。事件はヨーロッパ外交に大きな衝撃を与え、英仏接近とドイツの孤立化を進めることで、やがて勃発する第一次世界大戦への緊張を高める契機となった。
歴史的背景
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強はアフリカやアジアに勢力を拡大し、植民地獲得競争を激化させていた。このような状況は一般に帝国主義の時代と呼ばれ、北アフリカでもフランスがアルジェリアやチュニジアを支配下に置き、さらなる進出を図っていた。一方、ドイツは統一後に急速な工業化を遂げつつも、植民地獲得で出遅れたと認識しており、世界政策(ヴェルトポリティク)を掲げて発言力の強化を狙っていた。1904年には英仏協商が結ばれ、エジプトを事実上の勢力圏とするイギリスと、モロッコに進出するフランスという構図が確認され、ドイツはさらに外交的孤立感を深めていった。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のタンジール訪問
こうした情勢の中で、1905年3月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は軍艦でタンジールに入港し、華やかなパレードとともにスルタン支持を表明した。皇帝は演説において、モロッコの独立と主権尊重を強調し、スルタンが自由に改革を進める権利を持つと述べた。この行動は、フランスによる保護権確立の動きを妨害し、モロッコ問題を国際会議の場に引き出そうとする意図を持っていたと理解される。タンジール事件は、ドイツが自らの存在感を誇示し、英仏協商の結束を試すための外交的示威行動であったと評価されることが多い。
フランスと列強の反応
ドイツの行動に対し、フランス国内では大きな危機感と政局不安が生じた。従来、モロッコ政策を主導していた外相デルカセは強硬姿勢を示したが、ドイツの圧力と戦争回避の世論の高まりの中で辞任に追い込まれ、フランス政府は一時的に譲歩的態度をとらざるをえなかった。一方、イギリスは英仏協商の精神のもとでフランス支持を明確にし、ドイツに対する警戒を強めた。こうして、ドイツ帝国は、危機を通じて自らの力を誇示しようとしながらも、結果として英仏の接近を加速させ、外交的孤立を招く方向へと進んでいった。タンジール事件は、列強間の同盟関係の再編を促す引き金となったのである。
アルヘシラス会議への展開
ドイツは、モロッコ問題の解決を列強による国際会議で行うべきだと主張し、その要求は受け入れられて1906年にアルヘシラス会議が開催された。この会議では、モロッコの警察権や金融制度などをめぐって激しい議論が交わされたが、多くの列強はフランスとスペインの役割を支持し、ドイツの主張は少数にとどまった。結果として、モロッコにおけるフランスの優越的地位が事実上承認され、ドイツは外交的敗北を喫した。タンジール事件は、ドイツが国際社会で自らの影響力を誇示しようとした試みが、かえって反対勢力の結束を固める結果となった典型例といえる。
タンジール事件の意義
タンジール事件は、単なる一都市訪問にとどまらず、20世紀初頭のヨーロッパ国際政治の緊張構造を浮き彫りにした事件である。第1に、事件は英仏協商の実効性を試す試金石となり、危機を通じて両国の協力関係を強化した。第2に、ドイツの世界政策が列強から孤立を招き、のちの危機において軍事的対立へと傾斜していく過程を示している。第3に、モロッコ問題はその後も再燃し、アガディール事件などを経て、欧州各国の対立は一層先鋭化していった。こうした流れの中で、タンジール事件は、表面的にはモロッコをめぐる外交争議でありながら、実際には列強間の勢力均衡と同盟関係の変化を象徴する重要な転換点であったと位置づけられる。