ファショダ事件
ファショダ事件は、帝国主義時代のアフリカ分割が頂点に達した頃の1898年、ナイル上流のファショダ(現在の南スーダンのコドク付近)で、イギリス軍とフランス軍の部隊が対峙して生じた国際的危機である。両国がそれぞれ自国の勢力圏を主張し、一時は戦争寸前とまで言われたが、最終的には外交交渉によりフランス側が譲歩し、ナイル流域の支配はイギリスの優位が確認された。この事件は、帝国主義国家間の対立と妥協、そしてその後の協商関係成立への転換点として重要な意義をもつ。
帝国主義とアフリカ分割の背景
19世紀後半、ヨーロッパ列強はアフリカをめぐって激しく競合し、いわゆる「アフリカ分割」が進行した。とくにイギリス帝国とフランスは、広大なアフリカ大陸をめぐる最大のライバルであった。両国は領土の獲得だけでなく、交通路や市場、原料供給地の確保を重視し、鉄道建設計画や軍事探検を通じて勢力圏の拡大を進めた。こうした競争の激化が、やがてファショダ事件の舞台を準備することとなる。
フランスのアフリカ横断政策とマルシャン遠征
フランスは西アフリカのアルジェリア、セネガル方面から、東アフリカのジブチ方面へと、大陸を東西に結ぶ勢力圏を築こうとするアフリカ横断政策を掲げていた。その一環として、将校マルシャンが率いる小規模部隊が、西アフリカから内陸を横断し、ナイル上流域を目指して出発した。マルシャン隊は困難な行軍の末、ナイル支流に面した小さな町ファショダに到達し、ここをフランス勢力の拠点として占拠したのである。フランス政府はこの成功を、西アフリカと紅海を結ぶ構想実現への一歩として高く評価した。
イギリスの3C政策とナイル支配の構想
一方、イギリスは、ケープタウン(Cape)、カイロ(Cairo)、カルカッタ(Calcutta)を縦に結ぶ「3C」を念頭においた3C政策を構想し、アフリカ南北を縦断する勢力圏の形成をめざしていた。とくに1882年のエジプト占領によってスエズ運河とナイル下流域を掌握したイギリスは、エジプトから南へナイルを遡り、スーダン・東アフリカへと勢力を拡大しようとしていた。ナイル上流域の支配は、地中海とインド洋を結ぶ経路を確保し、帝国の要衝を守るうえで欠かせない戦略目標であった。
スーダン再征服とオムドゥルマンの戦い
19世紀後半のスーダンでは、マフディー運動による反英反エジプトの独立政権が成立していた。イギリスはナイル流域の安全を確保するため、このマフディー国家を打倒しようとし、キッチナー将軍の指揮のもと再征服戦争を進めた。1898年、オムドゥルマンの戦いでキッチナー軍が決定的勝利を収めると、英エジプト連合軍はさらに南へと前進し、その進軍の行き着いた先が、フランス軍が先に占拠していたファショダであった。
ファショダでの英仏対峙
ファショダ事件の核心は、ファショダにおける両軍の直接対峙である。1898年9月、キッチナー将軍率いるイギリス軍がファショダに到着すると、そこにはすでにマルシャン隊がフランス国旗を掲げて陣取っていた。キッチナーはナイルとその支流に対するイギリスの優先権を主張し、フランス軍に撤退を求めた。一方マルシャンもまた、フランス政府の命令に基づきファショダを占領したと主張し、容易には退かなかった。現地では双方とも武力衝突を避けつつも、一歩も譲らぬ緊張した対立状態が続いた。
ヨーロッパ世論と戦争危機
ファショダでの対峙の報はヨーロッパにもたらされると、イギリスとフランスの世論を大いに刺激した。両国の新聞は愛国心を煽り立て、相手国への強硬姿勢を要求する論調を強めたため、一時は英仏開戦の可能性すらささやかれた。しかし各政府は、ドイツなど第三国の動向やヨーロッパ均衡を考慮し、全面戦争は得策でないと判断していた。こうして実際の決着は、銃ではなく外交交渉の場に持ち込まれることとなった。
外交交渉と危機の収束
ファショダ事件の処理にあたり、フランス政府は国内の対英強硬派と、ドレフュス事件などで揺らぐ政治状況のあいだで苦しい判断を迫られた。他方、イギリス側はナイル支配とエジプト経路の確保を譲るつもりはなく、フランスに事実上の撤退を求める姿勢を崩さなかった。最終的にフランスは、ナイル流域でイギリスと対決を続けることは国力上不利だと判断し、マルシャン隊を撤退させる決定を下した。この結果、ファショダからフランス軍が退くことで、軍事衝突の危機は回避され、事件は平和的に収束した。
英仏協定と勢力圏の画定
ファショダ事件ののち、1899年に英仏間で締結された協定により、ナイル流域およびチャド湖周辺の勢力圏が画定された。これにより、ナイル上流域は事実上イギリスの勢力圏とされ、フランスは西アフリカから内陸部への支配に重点を移すことになった。この協定は、アフリカ分割の一つの区切りであると同時に、両国が全面戦争を避け、折り合いをつける道を選んだことを象徴している。
帝国主義競争から協商関係へ
ファショダ事件は、一見すると英仏帝国主義の激しい対立の象徴だが、長期的に見ると両国関係の転換点となった。フランスはドイツとの対立を重視し、やがてドイツ帝国を牽制するためにイギリスとの協調に傾く。1904年のエンテンテ・コルディアル(英仏協商)は、その象徴的な合意であり、のちの三国協商の基礎ともなった。すなわち、アフリカにおける対立から出発した事件が、最終的にはヨーロッパ国際政治における協商陣営の形成へとつながっていったのである。
ファショダ事件の意義
ファショダ事件の意義は、第一に、ナイル流域と東アフリカにおけるイギリスの優位が確立し、イギリス帝国の対インド交通路が強化された点にある。第二に、フランスのアフリカ横断政策は挫折し、代わりに西アフリカ支配の充実へと方向転換を余儀なくされた。第三に、こうした対立の処理を通じて、両国は武力衝突よりも外交的妥協を選ぶ経験を積み、やがて対ドイツ包囲のための協商関係へと歩み寄る契機となった。このようにファショダ事件は、帝国主義と植民地支配の文脈だけでなく、20世紀初頭の国際関係の再編成を理解するうえでも重要な出来事である。