三国協商
三国協商は、20世紀初頭においてイギリス・フランス・ロシア帝国が形成した協力関係であり、ヨーロッパ国際関係の二極化を決定づけた枠組みである。これは一度に結ばれた同盟ではなく、フランスとロシアの露仏同盟、イギリスとフランスの英仏協商、イギリスとロシアの英露協商という3つの合意が積み重なった結果として成立した。こうしてイギリス・フランス・ロシアが連携することで、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアからなる三国同盟と対抗する勢力が生まれ、やがて第一次世界大戦へつながる緊張構造が固定化されていくことになる。
三国協商成立の国際情勢
19世紀後半、ドイツ統一を成し遂げたドイツ帝国と宰相ビスマルクは、フランスを孤立させるため複雑な同盟網を築きあげた。その結実がドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアによる三国同盟であり、フランスは復仇を目指しつつも頼れる同盟国を欠く状態に置かれた。一方、イギリスは「光栄ある孤立」と呼ばれる伝統的な単独行動主義を維持していたが、20世紀に入るとドイツの海軍拡張と帝国主義政策の加速により、その安全保障が揺らぎ始める。こうして、従来は対立していた列強同士が、ドイツ牽制を共通目的として接近していく土壌が整ったのである。
露仏同盟の成立
最初に動いたのはフランスとロシアである。ドイツと三国同盟諸国に包囲されていたフランスは、孤立から脱するためにロシアとの接近を試みた。一方のロシアも、ドイツとの関係悪化や資本需要の高まりからフランスの金融力を必要としていた。こうして1890年代初頭、仮条約・軍事協定を経て露仏同盟が成立し、フランスは大陸に強力な同盟国を獲得する。三国協商の出発点は、この露仏間の軍事同盟であり、ここで初めてドイツ包囲の構図が具体化したといえる。
英仏協商とイギリス外交の転換
フランスがロシアと結びつく一方、海洋覇権国イギリスは、ドイツの建艦政策と世界市場への進出に強い危機感を抱くようになった。植民地競争において対立してきたフランスとの関係を整理することで、ドイツへの対抗に集中しようとしたのである。こうした発想のもと、エジプトやモロッコなどアフリカでの利権調整が進み、1904年に英仏協商が締結された。これは形式上は同盟ではなく「協商(Entente)」と呼ばれるが、実質的にはイギリスがフランス側に傾斜する外交上の大きな転換であり、後の三国協商の重要な柱となった。
英露協商と三国協商の完成
次の段階はイギリスとロシアの関係改善である。両国は長らく中央アジア・イラン・インド方面で勢力圏をめぐり対立してきたが、ドイツの中東進出や鉄道計画などが進むと、互いに争っている余裕がなくなった。1907年、イギリスとロシアはペルシア・アフガニスタン・チベットにおける勢力圏を調整する英露協商を締結し、宿敵同士の関係は協調へと転じる。この時点で、露仏同盟・英仏協商・英露協商という3つの枠組みが出そろい、イギリス・フランス・ロシアの連携を指す三国協商が事実上完成したとみなされる。
三国協商と三国同盟の対立構図
三国協商が成立すると、ヨーロッパは二つの大きな陣営に分かれた。一方には三国同盟を軸にしたドイツとオーストリア=ハンガリーがあり、他方にはイギリス・フランス・ロシアが結集した。さらに、極東ではイギリスが日英同盟を通じて日本を事実上のパートナーと位置づけ、ドイツ包囲の環が世界規模へと広がっていく。こうした二極化は、危機が起こった際に小規模な紛争であっても、同盟義務を介して列強全体を巻き込む危険を高めた点で重要である。
モロッコ事件とバルカン危機
二極化した国際秩序のもと、局地的な対立はたびたび大国間の衝突へと発展した。代表的な例が1905年と1911年のモロッコ事件であり、ドイツがモロッコ問題に介入してフランスに圧力をかけた結果、イギリスとフランスの結束がかえって強まるという結果を招いた。また、オーストリア=ハンガリーがスラブ民族問題を抱えるバルカン半島で強硬策をとると、ロシアは汎スラブ主義の立場からこれに対抗しようとし、ドイツとロシアが向き合う危険な構図が繰り返し現れた。こうした危機の連鎖は、三国協商諸国の相互不信と警戒心を一層強めることになった。
三国協商の軍事的特徴
三国協商は、三国同盟のような単一条約ではなく、複数の二国間合意の組み合わせであったため、軍事義務は必ずしも明文化されていなかった。しかし、危機が続くなかで、各国は次第に戦時協力を前提とした準備を進めていく。
- フランスとロシアの参謀本部は、対独戦争を想定した動員計画を詳細に協議した。
- イギリスとフランスは海軍・陸軍の役割分担を進め、英海軍が本国艦隊をドイツ封鎖に集中させる一方、フランスは地中海の防衛に比重を置くようになった。
- 各国はドイツの建艦政策に対抗して海軍力を増強し、建艦競争は国民感情を煽る要因ともなった。
このように、形式上は緩やかな協商であっても、実態としては大戦前夜には同盟に近い軍事ブロックとして機能していたといえる。
第一次世界大戦への影響
1914年のサラエボ事件を契機とする危機において、三国協商の枠組みは決定的な役割を果たした。オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアはスラブ系国家の保護を名目に動員を開始し、フランスは露仏同盟に基づきロシア支援の姿勢をとる。ドイツは同盟国オーストリア=ハンガリーを支えるためロシアとフランスに宣戦布告し、イギリスはベルギーの中立侵犯を理由に参戦した。こうして本来は局地的で終わりうる紛争が、三国協商と三国同盟という対立構造を通じて、全面的な第一次世界大戦へと拡大したのである。
三国協商の歴史的意義
三国協商は、単に三国が手を結んだ同盟というだけでなく、19世紀型の柔軟な均衡外交が崩れ、固定化された陣営対立へと移行したことを象徴する枠組みである。その背景には、軍備拡張・植民地争奪・民族主義といった要因が複雑に絡み合っており、協商そのものが戦争を「必然化」したわけではない。しかし、危機が起こるたびに各国が「陣営の信用」を守るために退路を断たれていったことは、三国協商と三国同盟という二つのブロックが、ヨーロッパ政治の柔軟性を奪い、大戦への道を舗装したことを物語っている。こうした点で、三国協商は20世紀国際政治の出発点を理解するうえで欠かすことのできない概念である。