英露協商|三国協商完成へ向かう英露接近

英露協商

英露協商は、1907年にイギリスとロシア帝国の間で結ばれた協定であり、中央アジアと中東地域における勢力範囲を画定することで、両国の長年の対立であった「Great Game」を終息させた外交的転換である。とくにペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットに関する利害調整が行われ、これによりイギリスはインド防衛の安全を、ロシアは極東での敗北後に西方へ外交的余力を獲得した。また英露協商は、英仏協商露仏同盟を結びつけることで三国協商体制を完成させ、第1次世界大戦前夜における列強の二極化を決定づけた点で重要である。

成立の背景

19世紀を通じてイギリスとロシアは、インドへの進路をめぐって中央アジアで激しく競合し、この対立構図は「Great Game」と呼ばれた。ロシアはコーカサス・トルキスタン方面へ勢力を伸長させ、イギリスはインドから北西辺境を固めることで対抗した。しかし20世紀初頭になると、ドイツ帝国の台頭と3B政策の進行、海軍力増強による建艦競争が国際政治の最大の脅威とみなされるようになり、イギリスは従来の光栄ある孤立政策を修正して、1902年の日英同盟、1904年の英仏協商と同様に、ロシアとの関係改善に踏み出した。

英露協商の内容

英露協商の中心は、ペルシア・アフガニスタン・チベットにおける勢力圏の明確化であった。ペルシアについては北部をロシアの優越的勢力圏、南東部をイギリスの勢力圏、中部を緩衝的な中立地帯とすることで合意し、これにより両国は直接の軍事衝突を回避した。アフガニスタンでは、イギリスの保護的地位をロシアが承認し、ロシアはアフガニスタン政府との直接交渉を行わないと約束した。さらにチベットについては、両国が相互に他国の特権を認めず、その領土保全と中国宗主権の尊重を確認した。こうした取り決めにより、インド北西辺境の安全保障は強化され、ロシアも西アジアへの安定した進出基盤を得たと評価される。

三国協商と列強の二極分化

英露協商は、それ自体が二国間協定であると同時に、1890年代から進んでいたフランスとロシアの露仏同盟、そしてイギリスとフランスの英仏協商を一本化し、事実上の三国協商を形成した点で大きな意味を持つ。三国協商は、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアから成る三国同盟と対峙する構図を生み出し、ヨーロッパ国際政治を二つの陣営に分断した。この構図はバルカン半島での危機と結びつき、サラエボ事件以後の連鎖的な動員と宣戦布告の背景となったため、列強の二極分化とバルカン危機を理解するうえでも、英露協商は不可欠な要素といえる。

帝国主義支配と地域社会への影響

英露協商による勢力圏の画定は、当事国であるペルシアやアフガニスタン、チベットの主権を大きく制約し、列強が国家の頭越しに外交・軍事・経済政策を決定する帝国主義的秩序を強化した。ペルシアでは1906年の立憲革命ののち、民族主義勢力がイギリス・ロシア両国の干渉に反発し、議会主権や国権回復を求める運動を展開した。アフガニスタンでも、宗教的・部族的権威が外部勢力の進出に対する抵抗の核となった。こうした動きは、後の反帝国主義運動や民族国家建設の前提となり、帝国主義時代の国際政治が地域社会に残した負の遺産を示している。

史学的評価と国際秩序の転換

歴史学において英露協商は、一方ではドイツに対抗する包囲網を形成し、第1次世界大戦を準備した「同盟外交」の一環として批判的に捉えられてきた。他方で、それまで武力衝突寸前であった英露関係を外交交渉によって調整し、中央アジアをめぐる危機を回避した点を評価する見解も存在する。いずれにせよ英露協商は、19世紀型の自由放任的な勢力均衡から、ブロック化した同盟体制による緊張した平和へと国際秩序が転換していく過程を象徴する出来事であり、光栄ある孤立の終焉、英仏協商露仏同盟と並んで、20世紀前半の世界戦争の起点を理解する手がかりとなっている。