ビスマルク|ドイツ統一を成し遂げた宰相

ビスマルク

ビスマルク(オットー・フォン・ビスマルク)は、19世紀後半にプロイセン王国とドイツ帝国の政治を担い、ドイツ統一を成し遂げた宰相である。「鉄血宰相」と呼ばれ、軍事力と外交交渉を組み合わせた現実主義外交(リアルポリティク)の典型として理解される。彼の築いた体制は、後のドイツ帝国の政治文化のみならず、同時代の思想家ニーチェや20世紀の政治思想、さらには国際関係論の議論にも影響を与えた点で重要である。

出自と青年期

ビスマルクは1815年、プロイセン王国のシュレージエン地方シュンハウゼンのユンカー(地主貴族)出身の家系に生まれた。ユンカー層は、土地所有と軍務・官僚制を通じてプロイセン国家を支えた支配層であり、この社会的背景が彼の保守的な政治観を形作ったとされる。大学では法学を学び、官僚としてのキャリアを歩み始めるが、官僚生活に必ずしも満足せず、農場経営に専念した時期もあった。この経験は、農村社会や地主層の利害に鋭敏な政治家としての視点を育て、後年の政策形成にも反映される。また、彼の宗教観は敬虔なプロテスタントに根ざしており、後にカトリック教会との対立政策を展開する土壌ともなった。

プロイセン政治家としての台頭

1848年革命の波がプロイセンにも及ぶと、保守派政治家としてのビスマルクの存在感が増す。自由主義的改革を求める勢力が台頭する一方、彼は王権と貴族制を守る立場から議会と対立し、保守陣営の論客として知られるようになった。その後、駐ロシア大使・駐フランス大使など外交官としての経験を積み、列強間の力関係や宮廷外交の技術を身につける。1862年、プロイセン王ヴィルヘルム1世は軍制改革をめぐり議会と激しく対立していたが、その打開策としてビスマルクを首相に任命した。彼は「今日の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血によって解決される」と述べた「鉄血演説」で知られ、軍事力を背景とした国家建設の方針を明確にした。この軍制改革は、産業化によって発展した兵器生産や鉄道輸送、さらには機械技術やボルトなど工業製品の大量生産と結びつき、プロイセンを軍事・工業国家へと変貌させた。

三つの戦争とドイツ統一

ビスマルクによるドイツ統一は、計画的な三つの戦争を通じて進行したとされる。

  1. 1864年の対デンマーク戦争では、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題を利用してオーストリアと協調し、デンマークを打倒して両公国を獲得した。
  2. 1866年の普墺戦争では、あえてオーストリアとの衝突を選び、短期決戦で勝利してドイツ連邦を解体し、北ドイツ連邦を創設した。
  3. 1870〜71年の普仏戦争では、スペイン王位継承問題とエムス電報事件を契機にフランスを挑発し、南ドイツ諸邦をプロイセン側に結集させて勝利を収めた。

普仏戦争の勝利ののち、1871年にヴェルサイユ宮殿においてドイツ皇帝が戴冠し、ドイツ帝国が成立する。ここでビスマルクは初代帝国宰相となり、プロイセン王国を中心とする統一国家の枠組みを完成させた。彼は勝利国でありながらフランスへの過度な屈辱を避けるべきだと考えていたが、アルザス・ロレーヌの割譲はフランスの国民感情に深い怨恨を残した。この点は、後にニーチェが批判したドイツ民族主義の過剰な高揚とも結びつけて理解されることがある。

帝国宰相としての内政

統一後のビスマルクは、ドイツ帝国宰相として強力な内政を推し進めた。まずカトリック教会と中央党に対しては、国家主権を守るためとして「文化闘争」を展開し、聖職者の教育・任免への国家介入を強めようとした。しかし反発は激しく、最終的には妥協を余儀なくされる。一方、社会主義運動の高まりに対しては社会主義者鎮圧法を制定し、政党活動や出版を抑圧した。その一方で、労働者の支持を取り込むために疾病保険・災害保険・老齢年金といった社会保険制度を世界に先駆けて整備し、「上からの社会政策」を実施したことでも知られる。これらの制度は、近代福祉国家の原型として高く評価され、後世の思想家サルトルニーチェが論じた近代国家と個人の関係を考える重要な素材ともなった。

ビスマルク体制の外交と勢力均衡

ビスマルクの外交政策の核心は、統一後のドイツ帝国がヨーロッパの現状を維持しつつ、孤立したフランスからの復讐戦を防ぐことであった。彼はフランスを包囲しつつも、他の列強とは巧妙な同盟・協定によって均衡を保とうとした。三帝同盟、独墺同盟、独墺伊三国同盟、ロシアとの再保障条約などは、この「ビスマルク体制」と呼ばれる複雑な同盟網を構成したものである。1878年のベルリン会議では、バルカン問題をめぐる列強の利害を調整し、オスマン帝国やロシア、オーストリアの要求をさばく調停者として振る舞った。ここでのビスマルクは、民族自決や理念ではなく、大国間の利害調整を優先するリアルポリティクの体現者であり、その現実主義は後の国際政治学だけでなく、権力と道徳の問題を論じたニーチェや、権力と責任を考察したサルトルの議論と並置されることもある。

退陣と後世への評価

しかし、統一後のドイツ帝国が安定すると、若き皇帝ヴィルヘルム2世はより積極的な世界政策を志向し、慎重な均衡外交を重んじるビスマルクとの対立を深めた。1890年、彼は皇帝によって解任され、ビスマルク体制と呼ばれた複雑な同盟網は徐々に崩れ始める。その後、ドイツは海軍拡張や植民地獲得に踏み出し、列強間の緊張は高まり、第1次世界大戦へと至る。歴史家たちは、強力な官僚制と軍部に支えられた権威主義的な帝国を築いたビスマルクの遺産が、ドイツ政治文化に長期的な影を落としたと論じてきた。一方で、彼が在任中は大規模な欧州戦争を回避し、現状維持の枠組みを維持した点を評価する議論も根強い。このようにビスマルクは、近代国家と権力、戦争と平和、個人と社会の関係を考えるうえで欠かせない存在であり、その評価をめぐる議論は、今日でもニーチェサルトルの思想研究とともに更新され続けている。