贖宥状(免罪符)
贖宥状(免罪符)とは、信者の犯した罪に対する罰を免除すると信じられていたローマ=カトリック教会が発行した証書である。御札。贖宥とは、信者みずからが犯した罪を償うことを免除すること、つまり罰を受けることを赦免することである。キリストが十字架上で人類の罪を贖った功績は、あり余るほどの「教会の宝」としてカトリック教会に受けつがれ、教皇はその宝を分け与えることによって、人びとの魂を罰から救うことができると信じられていた。本来は、教会に対する功労があった信者に与えられるものだったが、中世末期には、教会の財政をまかなう目的で濫売された。信者が罪の悔くいあらためと神への信仰を軽んじるようになったため、ルターは信仰に有害なものとして痛烈に批判した。
贖宥状(免罪符)の背景
中世は多くの人々にとって苦難と不安の中で生きた。特にヨーロッパで繰り返し流行したペストは、彼らを絶望の淵に突き落とした。その中で罪が免れるという贖宥状(免罪符)という御札を購入できることは、絶望に生きる人々にとって救いの道となる。中世カトリック教会では、罪を犯したものはその罪を悔い改め、司祭の前で罪を克服した後、贖罪を求めれば、罪を赦される。ただし、そこには刑罰としての巡礼、断食、慈善などが求められる。次第にこの刑罰が教会への寄付や献金に代替され、贖宥状(免罪符)につながった。
贖宥状(免罪符)誕生の歴史経緯
ルネサンスのローマのサン・ピエトロ10世(在位1513-21)はローマのサン・ピエトロ聖堂の改築、キリスト教界の霊魂救済を促すためとして、ドミニコ会修道士ヨネス・テッツェル(1456-1519)に命じ、贖宥状(免罪符)の販売をはじめた。ハネス・テッツェルは赤い十字架を掲げ、金貨が箱に落ちてチャリンとなると魂は天国に昇って救われると宣伝しながら、御札を販売したと伝えられている。贖宥状(免罪符)の販売行為は、多くの批判を受けたが、当時の苦しみにあえぐ人々の救いの道なったこと、多くの芸術家によって中世を代表する建築サン・ペエトロ聖堂が建てられたこと、ルターを中心として展開された宗教改革につながったことは皮肉的である。
ルターの贖宥状(免罪符)批判
ルターは贖宥状(免罪符)に宗教的危機を感じ、批判的に扱った。