蘇我入鹿|山背大兄王への襲撃と乙巳の変

蘇我入鹿

蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷より大臣を継承する。権力を強め、聖徳太子の子である山背大兄王を殺害した。自邸を谷宮門(はさまのみかど)と呼んだ。後継者争いの末、645年、乙巳の変で蘇我派に敵対する中臣鎌足中大兄皇子の両者によって殺害される。

目次

山背大兄王への襲撃

643年11月1日、蘇我入鹿と軽(かる)皇子、巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)、大伴連長徳(おおとものむらじながとこ)らの率いる軍勢は、斑鳩宮に住む山背大兄王一族を襲撃し、滅亡に追い込んだ。山背勢は防戦につとめたが、宮には火が放たれ、山背大兄王の父・聖徳太子が築いた斑鳩宮は炎上する。山背大兄王一族は、側近の三輪君文屋(みわのきみふんや)の誘導により脱出に成功したが、斑鳩宮を脱出した王一行は、一時生駒山中に難を避ける。しかし、東国に行って再起しようという家臣の説得にもかかわらず、山背大兄王一族は「わが身ひとつを入鹿に賜う」との言葉を残して、数日後、斑鳩寺で自害した。

山背大兄王への襲撃の動機

斑鳩宮襲撃は、蘇我入鹿の計画により実行した。643年の病気を理由に引退した蘇我蝦夷に代わり、新たに大臣となったばかりであった。この行動は、唐と高句麗との戦争への対応策、それに対処できる天皇の擁立という、外交・内政に関する2つの懸案を一挙に解決するためだと考えられている。天皇の擁立は、蘇我入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子と軽皇子(皇極天皇の弟)との対立であるが、斑鳩宮襲撃は、両派が共通の敵として山背大兄王を妥当する必要があった。

乙巳の変

645年6月12日、蘇我派の敵対勢力により、蘇我入鹿は殺害された。これを乙巳の変という。皇極天皇の突然の召集をうけて飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)に入った蘇我入鹿は宮中大殿で襲われ死んだ。当時は雨天であった。