荻生徂徠|古文辞学,先王の道と経世済民

荻生徂徠

荻生徂徠は江戸中期に活躍した儒学者で、古文辞学の創始者。幕政にも影響を与えた。主著は『弁道』・『弁名』『政談放』。当初は、朱子学を学んだものの、朱子学の間違いは四書五経の誤読にあるとして、それらを克服する独自の学問体系として儒教の原典に立ち返る古学を確立した。荻生徂徠は、実証的な文献学としての古文辞学を樹立し、近代的な学問方法への道を開いた。荻生徂徠の思想的特徴は、儒学の根本を天下を安泰にすることであると考え、人民の生活向上を目的とする「経世済民の学」としてとらえ、内面的道徳よりも政治思想に重点を置いていることである。道徳論を中心としたこれまでの儒学に対して、道徳的修身を私の世界とし、公の秩序を目的とする政治の独自性と価値を主張した。また、詩文の世界にも古文辞学を適用し、活発な文学活動にも知られる。江戸時代中期以後の、国学・洋学・経世北論に大きな影響を与えた。

荻生徂徠の略年

1666 将軍就任前の痣川網吉侍医の子として江戸に生まれる。
1679 父が流罪となリ江戸を離れて極貧生活をする。
1692 父が許されて江戸に戻り儒者として私塾を開く。
1696 側用人柳沢吉保に仕える。
1704 伊藤仁斎に手紙を送るが返事がなく疑心を抱く。
1709 柳沢吉保から難れる。
1721 幕府からの『六諭衍義』の訓点などの生命に応える。
1727 吉宗より『三五中略』の校正を命じられる。このころ『政談』完成。
1728 死去。

荻生徂徠の生涯

荻生徂徠は、上野国館林藩主時代の徳川綱吉の侍医の次男として江戸に生まれた。13歳の時に父が綱吉の怒りに触れてとなり、一家は上総国(かずさ)(千葉県)へ流罪となり、12年間その地で貧窮の生活のなかで学問に励んだ。この間、貧しい農民や漁夫らの現状と接したことによって、荻生徂徠の思想に大きな影響を与えた。26歳の時、父が許されて一家は再び江戸へ戻り、父は将軍となった綱吉の侍医へ復帰した。荻生徂徠もまた学者として若くしてその才能を開花させ、芝増上寺の門前に私塾を開いた。30歳の時にはその才能が認められ、後に大老格となる側用人柳沢吉保に仕え、綱吉に儒学講義を行う栄誉を得た。この際に幕府の政策にも少なくない影響を与えた。徳川網吉が死去し、吉保が失脚すると政界から身を引き、日本茅場町に居を構え、私塾「蘐園けんえん」で儒学の研究に没頭した。実証的な文献学としての古文辞学を樹立し、近代的な学問方法への道を開いた。その将軍徳川吉宗に雇われ政治顧問として活躍し、政治力を保っていた。

古文辞学

古文辞学とは荻生徂徠がとなえた古学の一派。中国の古典の文辞(文章や言葉)に直接ふれ、治国・礼楽の道を求めようとした。孔子孟子の原典に基づいた精読を重んじ、古代中国語の研究に努めた。その研究姿勢は、わが国古典の研究と日本人古来の生き方を探究する国学の勃興をうながす契機につながる。

荻生徂徠が考えた「仁」は、これまでの儒学で考えられた個々人の修行によって君子(最高の人格者)となるための最大の徳目ではなかった。より実際的なもので、為政者が多くの民衆を導きながら社会全体に秩序と安泰をもたらすという目的によってなされるとした。孔子が理想とした古代中国の帝王と聖王たちが、何のために社会制度を構築してきたかが荻生徂徠にとって重要であった。「先王の道」といい、国家の安泰が儒学の目的である。社会の秩序が維持されて、人々が平和に生活を営むことが「安天下の道」であるとした。
儒学を基本として仁を尽くし、知力を尽くしてつくり上げられた社会制度は、長期的に成果をなしえるものであり、壮大なスケールでの平和の実現であった。

「先王の道」は、先王が創造したものである。天地自然のままの「道」ではないのである。
つまり先王は聡明・英知の徳を持つことから、天命を受け、天下に王としてのぞんだ。
その心はひとえに天下を安泰することを任務としていたので、精神を使いはたし、知恵の限りを尽くして、この「道」を作りあげ、天下後世の人々をこれによって行動するようにさせたのだ。

先王の道

道は朱子学が説くような天地自然にそなわっているものではなく、堯・舜などの中国古代の型人(先王)が天下を安んじるために政治的・社会的に制作した安天下の道、「先王の道」であると説いた。そのために古代中国の聡明で英知の徳を備えていた理想の君主が創造した「先王の道」に立ち返らなければならない。
具体的には、礼楽刑政(儀礼・音楽・刑罰・政治)などの制度や習俗をさす。荻生徂徠の説によれば、先王は道を制作することによって、人びとがそれぞれ持つ素質を発揮し、社会全体が調和的に発展することを可能にしたとする。

経世済民

経世済民とは、世を治め民を救うこと。荻生徂徠は学問に対して、政治・経済をその目的とする。もともと儒教が目的とするものであるが、荻生徂徠はこれをとくに強調し、個人の修養を重んじるあまりに安民を忘れ、社会の諸制度を究明しなかった従来の儒教を批判した。

「先王の道」は、天下を安泰にする「道」であった。その「道」は幾つもの面があるが、結局は天下を安泰にすることに帰着してしまう。その根本は天命をつつしんで守ることにあって、天が自分に天子となれ、諸侯となれ、大夫(諸侯の下にあって国政をとる人)になれと命じたならば、自分の下に臣民がいることとなる。土になれと命じたならば、一族や妻子をかかえることになる。
いずれも自分の力に頼って安泰となるべき人々である。しかも士や大夫は、すべてその君主と協力して天から授けられた職務を遂行する者である。だから君子の「道」においては、仁こそが大きなものとされる。

六経

荻生徂徠は、「安天下の道」を実現し、国家の政治的・経済的安定を実現するためには、孔子のいう「仁」が大切である。孔子の説く「仁」のために、六経の研究を提唱した。六経とは、『易経』、『詩経』、『書経』、『春秋』、『礼記』、『楽経』のことで、これらを古代中国語で精読し、朱子学にかわる真の聖人(古代の理想の君主)の教えを明らかにしようとした。こうした研究をまとめたものとして、彼は『弁道』を著した。

礼楽刑政

安天下の道の実現のために、先王が定めた「礼楽刑政」を提唱した。「礼楽刑政」とは、「儀礼」と「音楽」を配合した「礼楽の教え」により養成される自己の徳と、「刑罰」や「政治制度」などの統治システムを合わせた総称である。この「礼楽刑政」を絶対視しており、これ以外を認めなかった。
この主張の背景には、朱子学が修身という個人道徳から出発して政治を論じている(修身・斉家、治国、平天下)ことを批判し、政治のみを論じようとするものがある。また、当時、江戸幕府が開かれてからすでに50年以上経過するのかで、社会や経済の変化に即応した現実的政治改革が求められるにもかかわらず、理念一辺倒に陥りがちな従来の朱子学では対応しきれなかった。

先王が天下の法を作り、人間が生活する規範を立てるためには、もっぱら礼に依存した。智者は考えることによってそれを理解しうる。愚かな者はわからないが、礼に従う。賢者は上から礼へと向かう。賢でない者は背のびをして礼にとどこうとする。何か一つのことをし、一つの発言をしようとすることがあれば、礼に照らして考え、それが先王の「道」に合うかどうかを知る必要がある。
だから礼という言葉は、具体的なものである。先王の「道」の具体化されたものである。とはいえ、「礼」を守ることがきびしすぎ、それに「楽」を配合しなかったならば、とうてい楽しみつつ徳を生み出すことはできまい。だから楽は、徳を生む方法である。天下の人々をはげまし、自分の徳をそだてて大きくさせるには、楽にまさるものはない。だから、礼楽の教えは、天地が万物を生み、育てるようなものである。君子はこれによって自己の徳を養成し、小人は自分の習慣を作りあげる。天下はこれによって安らかに治まり、国の伝統はこれによっていつまでも続く。

『弁道』

荻生徂徕は『弁道』のなかで古文辞学の方法を説いた。道とは天下を安定させるための古代中国の王が作為した政治や社会の具体的制度、すなわち成人の道であることを書いている。

赤穂浪士の討ち入り

1701年、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が江戸城中で高家吉良義央に切りつけ、即日切腹させられた事件に端を発し、改易(領地の取り上げ)された家臣たちが、1702年12月、吉良の屋敷に討入り、義央を殺害した。浪士は翌年2月、幕府より切腹を命じられ、この浪士の切腹までを含めて赤穂事件という。この討入りを武士の「義」としてどう判断するかには、二つの立場があった。室鳩巣は、大名家の主従関係に義をみて、主人の仇を討ったもので、「義人」であるとした。他方、荻生徂徠らは、幕府の秩序を重んじ、主君が幕府と対立した場合、主の仇を討つことは公儀を乱す不義になるとした。幕藩体制の持つ本格的矛盾を示す議論となった。また、討ち入った者たちに切腹を命ずることを主張したのは、礼楽刑政を重んじた荻生徂徠であった。

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