聖武天皇
聖武天皇は、大和国(奈良県)に生まれた。文武天皇の皇子である。全国に国分寺・国分尼寺を建てるように命じ、東大寺に盧舎那仏を造立した。宗教だけでなく、美術・工芸・文学など、天平文化に大きく寄与した。政治的には、墾田永年私財法を制定し、律令政治の根幹であった公地公民制を放棄した。
目次
聖武天皇の略年
701年 文武天皇の第一皇子として生まれる
729年 長屋王の変が起こる
724年 即位する
740年 藤原広嗣の乱が起こる。
741年 国分寺建立の詔を出す。
743年 墾田永年私財法、大仏造立の詔を出す。
749年 孝謙天皇に譲位
752年 大仏開眼供養
756年 崩御
『四聖御影』
『四聖御影(ししょうみえい)』に描かれる聖武天皇(中央)。その政治は苦難に満ちていた。天皇を囲んでいるのは、行基(左下)、菩提整那(右上)、良弁(右下)。
長屋王の変
724年(神亀1)、聖武天皇は即位したするが、当初実権を握っていたのは、左大臣となった天武天皇の孫である長屋王であった。しかし、729年、長屋王は、長屋王の変と呼ばれるクーデターを画策し、密告されて自害した。(藤原四子がねつ造した無実の罪だと言われている。)
藤原不比等の4人の子の死
長屋王に変わって実権は藤原不比等の4人の子(藤原四子)にうつるが、737年(天平9)、天然痘が流行し、藤原四子が相次いで病死した。これは、藤原氏はもちろん、聖武天皇にとっても、痛手となった。
政権争い
藤原氏のあとは、皇后・藤原光明子の異父兄にあたる橘諸が政権を握るが、この頃から貴族間の争いが激しくなる。740年(天平2)には藤原四子のひとり、宇合(うまかい)の子の広嗣が大宰府で反乱を起こした。その後、大伴氏や多治比氏をも巻き込み戦火は拡大していった。この動乱に加えて、地震や飢饉、疫病の流行で社会は荒廃していく。
遷都
聖武天皇は740年、平城京から恭仁京(くにきょう)に遷都する。その後、紫香楽宮(しがらきみや)、難波宮へと都を転々と移した。結局、745年には平城京に都を戻した。
大仏造立の詔
戦乱や疫病など相次ぐ混乱の中、聖武天皇は仏教に救いを求めた。(鎮護国家)740年、遷都のあいだ、全国に国分寺と国分尼寺を建てることを命じた。743年には大仏造立の詔を出す。この聖武天皇の鎮護国家によって国を統治しようとしたその影響は、宗教や芸術に大きく影響した。
大仏の建立
聖武天皇は、社会不安を払拭するため、大仏の建立する計画を立てる。当初は、紫香楽につくる予定で大仏の柱も組まれたが、地震や不審火が相次いだため計画は中断し、現在の東大寺に作られることとなった。行基をはじめ多くの高僧や豪族に助力をもとめ、260万人を動員したと伝えられる。
東大寺
東大寺は周舎那仏坐像がある古寺で世界遺産に登録されている。周舎那仏坐像は、世界最大の銅による鋳造物で、大仏殿は世界最大の木造建築物である。戦国時代に松永久秀により焼き討ちされ、尊容が破損、江戸時代に修復された。聖武天皇の多くの身の回り品が東大寺に献納された。
墾田永年私財法
自分で開墾した土地は永久に私有を認めるという「墾田永年私財法」も出されている。
大仏開眼供養
752年(天平勝宝4)、珍香を漂わせた荘厳な大仏殿において、孝謙天皇・聖武上皇をはじめ文武百官と僧1万人が集まり、大仏開眼の法会が盛大に挙行された。高さ9メートル、重量380トンといわれる巨大な盧舎那仏であった。
崩御
念願の大仏開眼供養の4年後、聖武天皇は崩御する。多くの身の回り品が東大寺に献納され、正倉院の宝物は今日に伝わる。
正倉院の宝物
正倉院の宝物は光明皇后が東大寺に寄進した聖武天皇遺愛の品や、大仏開眼法要に関わる品など収蔵品は数千点にのぼる。中国の唐、シルクロードを経てペルシアなどからもたらされたものもある。