縄文時代|縄文人の生活と文化,縄文土器

縄文時代

縄文時代は約1万3000年前にさかのぼると考えられる。考古学者では、沖積世のはじまった時期である。弥生時代(紀元前500~紀元前400年)が始まるまでの約1万年という長い時代のあいだ続いた。その遺跡は北海道から沖縄まで、全国各地に多数存在している。やがて外来から弥生人がやってきて縄文時代が終わりを告げるが、戦争によって退けられたのか、混血して交わったのかで議論が分かれている。

縄文時代

縄文時代

目次

縄文時代

縄文時代は日本の新石器時代にあたると考えられている。新石器時代の条件は下記の通りだが、3.農耕・僕地をつくること、4.巨石墳墓が作られること、5織物がつくられることはなかった。ただし、黒又山とよばれる古墳が秋田県にあるという説や、農作物に適した土地に分布されていることから農作があったという説もある。

新石器時代の条件

  1. 磨製石器が使われること
  2. 土器がつくられること
  3. 農耕・牧畜が行われるようになること
  4. 巨石墳墓(ドルメン)がつくられるこ
  5. 織物がつくられること

縄文文化

縄文時代は、土器とともに出現したと考えられる。この時期に栄えた文化を縄文文化という。出土する土器には、多く縄目の文様がつけられていることから、その土器を縄文式土器と呼ぶ。土器の形式などによって編年が進められ、近年の研究では、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分され、各期がさらに数期に区分されている。

縄文土器

中空土偶

中空土偶

この時代の土器は、約1万年以上ものあいだ継続して道具の製作された。縄を押しあてたような文様があるので縄文式土器と呼ばれるが、縄文以外にも、貝殻文・押型文・燃糸条痕文・隆起線文などがある。土器の製作法は、巻上法といって、細長い粘土のひもをらせん状に積み上げ、丸い棒を表面にあてて文様をつくり、形を整えるものから、やがて、輪積法といって、粘土の輪を積み上げ、ひもで形を整えるようになった。縄文はこのような製作法の結果つくられたものである。それを500~800°Cの低い温度の火で焼いたので、質がもろく、黒褐色の厚手の素焼き土器であった。
土器は、食物の調理・貯蔵に用いられたのだが、深鉢が中心であった。早期には尖底の深鉢がつくられたが、前期には平底深鉢がつくられるようになり、後期になると器形が複雑化し、機能による分化も進んだ。後期・晩期には注口土器・高杯土器などもつくられるようになった。分布はほぼ全国にわたるが、とくに関東・奥羽など東日本に多く、晩期の亀ヶ岡式土器は、すかしぼりの香炉形土器、雲形文を浮きぼりにした鉢・皿・高杯・急須など、縄文文化発達のひとつの極致を示すもそれに対し、西日本では、文様も簡単なものへと変わっていった。土偶のほかに土面・土版も確認されている。

漆塗りの土器

世界で最古ともおもわれる漆塗りを施した土器も見つかっている。

石器・骨角器

石器は初期は打製石器が使われたが、磨製石器も用いられている。狩猟のための石槍・石鏃、獣の皮をはぐ右患、漁労のおもりとしての石錘、木の実などを砕く石皿・石臼、土掘りに用いられた石斧など、多くの種類のものが見つかっている。ほかに、石棒・独鈷石・石刀など、呪術のためにつくられたと思われるものもある。骨角器もさかんにつくられ、シカ・イノシシ・クジラなどの骨・牙・角などで釣針・鋲・針など、主として漁労の道具がつくられた。また、骨角で耳飾り・腕輪など装身具もつくられた。ほかに、木工もさかんで、丸木舟、石器の柄、鉢・皿のような日用品、弓・矢・棒のような狩猟用具がつくられた。草木の繊維によるひもやむしろ、布などもつくられた。

生活と文化

女性は主にクルミ・クリなどの果実やハマグリ・カキ・シジミ・タニシなどの貝類を採集し、男性は集団で石鏃・石槍などを用いてシカ・イノシシなどの獣類を狩猟し、骨角製の銛・釣針でマグロ・カツオ・サメなどの魚類をとらえ、果実は石皿・石臼で粉にし、鳥獣は石貼で調理して食用とした。食べた残りの貝殻や動物の骨などは捨てられて、貝塚となっている。

採集・狩猟・漁労

縄文時代には、採集・狩猟・漁労が生業とされたから、森林や住居と集落は河海からあまり遠くない小高い丘の上に住居が営まれた。住居は早期のころまでは自然の洞窟が利用されていたが、前期・中期以後は竪穴住居が一般的になり、後期・晩期には平地に石を敷き並べて建てる敷石(平地式)住居もあらわれた。住居の中には、煮炊きのための炉が設けられるのが普通だった。住居のまわりには、縄文時代人が食べた貝の殻や鳥・獣・魚類の骨木の実などを捨てた跡である貝塚が発見される。

竪穴住居

三内丸山遺跡

三内丸山遺跡

竪穴住居は、1辺4~5mの地面を円形か隅丸方形に40~50cmほど掘り下げ、4~8本の掘立柱を立て、棟木をわたして、屋根をかやや泥などで地面までふきおろしたもので、内部に炉が、周囲には排水溝が設けられた。その規模から、ひとつの住居には5~10名が住めると考えられ、おそらく夫婦と子供よりなる単婚小家族が2~3つ集まって世帯共同体を構成していたと考えられる。
竪穴住居跡は、かつては2~30軒くらいずつまとまって発見されるものが多かったが、青森県三内丸山遺跡の発見で、今日では100軒以上の大集落で数百年以上継続された例も確認されている。

農耕・牧畜

縄文時代には、農耕・牧畜は確認されていない。ただし、縄文時代中期には集落の規模が大きくなり、定住性が増してきている。そして、代表的な土器である勝坂式土器の分布が現在の畑作中心地と一致していることから、今後、農耕の痕跡を発見できるかもしれない。

交易

集落間で現物による交易も行われた。一定レベルの航海術をもっており、海辺の集落と内陸の集落の間を船で移動しており、魚や貝などが運ばれていた。限られた地域(長野県・東京都・静岡県・北海道)でしかとれない黒曜石石鏃が広範囲に出土したり、新潟県でとれる翡翠が青森など各地で発見されることから想像される。

アニミズム(精霊信仰)

縄文時代は、自然物には霊魂が存在すると考えて、それを畏怖し、崇拝するアニミズムが信仰されたと考えられている。霊魂の働きを抑え、霊魂に働きかけるために呪術が行われた。山岳信仰も強かったと考えられている。
埋葬するさいに、死者を埋葬するときに四肢を折り曲げる屈葬や、石を抱かせて埋葬した抱石葬などの遺跡がのこっている。土偶という土製人形がつくられたが、それも魔除けや繁栄を祈るお守りのようなものだった。土偶には女性を表わすものが多く、それは妊娠・出産という女性の働きが生産と繁栄をもたらすものと考えられたからだと推測される。

抜歯

抜歯という風習もあった。具体的になにを意味するかはわからないが、成人になるための通過儀礼であると推測されている。その他、抜歯にはほかに、歯に切り込みをつけてとがらせることも行われた。