湾岸戦争
湾岸戦争とは、サダムフセイン率いるイラクが油田などの利益を求めてクウェートに侵攻したことから始まった戦争である。アメリカが主導し多国籍軍が作られ、ソ連がそれを支持したことから冷戦の終焉を象徴する戦争となった。またテレビを活用したメディア戦略やコンピューターが組み込まれた現代兵器が利用された。日本は経済的支援をしたものの、軍事的支援をしなかったため、国際的批判を受け、国内でも議論が沸き起こった。

湾岸戦争
目次
- イラク共和国
- サダム・フセイン
- 冷戦時代
- イラン革命
- 冷戦の終焉
- イラク軍の侵攻
- 安全保障理事会
- 国際的非難
- 多国籍軍の結成
- イラク軍の占領
- イスラエル
- パレスチナ解放機構
- 多国籍軍
- 在独アメリカ軍
- 多国籍軍の攻撃開始
- 地上戦
- 環境汚染
- フセインの残留
- ブッシュの敗退
- クルド人保護区
- シーア派保護
- プロパガンダ
- 日本への批判
イラク共和国
イラク共和国は、当時、人口約2000万人。首都はバグダッド。北はトルコ、東はイラン、南はクウェート、サウジアラビア、西はシリアとヨルダンに境を接する。メソポタミア文明、シュメール文明やアッカド朝、バビロニアなどが栄えた。1932年、イラクはイギリス独立するが、次第にクウェートを自国の領土だと主張するようになる。1961年、イラクのカセム大統領は、クウェート全体が、イラクのバスラ州の一部だった発言し、イギリスの責任を強く非難したが、一方、イギリスは、同年1961年、クウェートの独立を認め、紛争化が決定的となった。
サダム・フセイン
1979年、サダム・フセインがイラク大統領に就任した。サダム・フセインはイラクを古代の大国、新バビロニアの再現を抱えていた。8年間の長期にわたるイラン・イラク戦争で多額の負債を負ったため、ペルシア湾の利権と、大量の石油を保有するクウェートへの侵略を画策することになる。

サダム・フセイン
冷戦時代
アメリカとソ連による冷戦において、ヨーロッパとアジアの接点に位置する中東、特にイラクとイランはその影響の中心となり、イランはアメリカ、イラクはソ連の支援を受ける。1979年、イラン革命で倒されるまでは、パーレビ国王のもと、アメリカからの援助を受けて近代化を進めた。
一方、ソ連はこれに対抗し、イランの隣国であるイラクに援助をすすめた。特に軍事面は、ソ連製の武器と軍事顧問団の駐在によって軍事拡大政策が行われた。
イラン革命
アメリカの支援を受けたイランでは、パーレビ国王による休息的な近代化路線によって、貧富の差が拡大し、国民の不満がたまっていた。これを受け、イスラム教原理主義のホメイニ師は、アメリカを「大悪魔」と呼んで強く批判し、イラン革命が起こした。イラン革命によりアメリカのイランへの影響力は喪失。さらにイランのイスラム教原理主義の勢力が、アラブ全域に広がることを警戒するようになる。ここに来て、アメリカや西側諸国が、ソ連の支援を受けていたイラクを支援し、イラクの軍事力が飛躍的に高まることになる。
冷戦の終焉
東西冷戦時は、各諸国がそれぞれアメリカとソ連の強い管理下に置かれていた。ある種の秩序が形成されていた。しかし、冷戦の終焉に伴い、中東の秩序は空白状態になり、あるいは空白状態を狙い、フセインはイラク軍のクウェート侵攻の決定した。
イラク軍の侵攻
1990年8月2日、イラク軍の対戦車部隊が国境を越えて、クウェートへ侵攻。10万もの大部隊は6時間後には首都クウェート・シティを制圧し、クウェート全域を占領した。戦力差は圧倒し、クウェート陸軍は敗退、空軍は戦闘もせずに隣国サウジアラビアへ逃亡した。王族の一人は殺害、その他はサウジアラビアに逃亡した。
安全保障理事会
イラクのクウェート侵攻の8月2日の当日、国連の安全保障理事会は、イラク軍の無条件撤退を求めた決議を採択した。続けて経済制裁など、イラクを非難する決議が決定、11月29日、イラク軍が1991年1月15日までにクウェートから撤退しない場合、イラク軍を排除するために、「必要なあらゆる手段」をとることを認めた。この決議に、中国は棄権に回ったが、ソ連は賛成した。
国際的非難
1990年8月3日、イラクの侵攻の翌日にジェームズ・A・ベーカー国務長官、ソ連のエドアルド・シュワルナゼ外相は、そろってモスクワで共同声明を発表し、イラクを激しく非難し、国際社会は反イラクでまとまることとなる。
「私たちにとって、これはかなり厳しい決断だったと申し上げておかなくてはなりません。(中略)ソ連は長年にわたって、イラクと友好関係にあったからです。しかしながら、われわれはこうせざるを得ませんでした」(ジェームズ・A・ベーカー『シャトル外交激動の四年』より)
多国籍軍の結成
イラクのクウェート侵攻に対し、国連は直ちに非難決議をまとめ、多国籍軍の結成した。ソ連は、多国籍軍の結成を承認、またイラク軍に供給した武器などの軍事情報をアメリカに提供するなど積極的な支援を行う。また多国籍軍はアメリカ中心の軍隊であったが、ソ連に対する軍事圧力として存在していたドイツ駐在のアメリカ軍も含まれていた。このことは、冷戦終焉の象徴となった。

ミサイル
イラク軍の占領
イラク軍が首都に近づくにつれ、クウェートのジャービル国王とサアド皇太子、閣僚は、サウジアラビアに亡命して、亡命政府を建国したが、その後、イラクは1990年8月8日、クウェートのイラク併合を宣言した。
イスラエル
国際的な非難を受け、サダム・フセインはイスラエルを巻き込むことで、対応しようとした。クウェート侵攻から10日後、フセイン大統領は、イラク軍撤退の条件として、「イスラエルの占領地からの撤退」を示した。イスラエル問題をクウェート侵攻をアラブ対イスラエルの問題にすり替え、「イラクより憎いイスラエル」の参加により、アラブ諸国の支持の獲得を意図したものだった。
湾岸戦争が始まると、イラクは、イスラエルを戦争に引きずり込もうと考え、スカッドミサイルをイスラエルに発射し、多数のイスラエル市民を殺害した。イラクの虐殺行為にたいし、イスラエルは反撃を示唆するが、アメリカの説得により、戦争化を避け、フセインの画策は失敗に終わる。
パレスチナ解放機構
PLO(パレスチナ解放機構)はイスラエルの参戦を画策したフセインに対し、これを利用することを狙い、支持を打ち出した。しかし、イラクからの直接の脅威を感じているサウジアラビアなどは、PLOの支持に対し不快感を表し、PLOへの資金援助を打ち切った。イラクを利用して国際的な注目を集めようとしたPLOはむしろ危機的状況を招くことになった。
多国籍軍
アメリカのブッシュ大統領は、中東への軍隊の派遣を直ちに決め、各国に協力を呼びかけた。イギリスやフランスなどが参加を表明し、多国籍軍が結成される。しかし、中東のアラブ諸国には反アメリカ感情が根強く、アラブ諸国の軍隊によるアラブ合同軍を結成し、司令官には、サウジアラビアのスルタン中将が就任した。しかし、多国籍軍に参加した国は、アラブ合同軍を含め28ヵ国であったが、地上作戦の開始直前には、合計84万4650人の兵のうちアメリカ軍は53万2000人を占め、また、実際の戦闘行動の指揮は、アメリカのシュワルツコフ司令官をとり、アメリカ中心の軍隊であった。

ブッシュ大統領
在独アメリカ軍
多国籍軍の中心となるアメリカは、国内の軍隊に加え、冷戦時代には、対ソ連のために有していた在独アメリカ軍の部隊を投入した。
多国籍軍の攻撃開始
イラクに対する多国籍軍の攻撃は、国連の提示した撤退期限の1991年1月15日の直後の17日未明から開始された。アメリカ空軍は巨大爆撃機B52やステルス機によって1ヶ月以上に続けた空爆を行い、イラク軍のレーダー基地、通信施設、発電所などを破壊した。
地上戦
多国籍軍は2月24日午前3時、地上戦に踏み込む。この際、多国籍軍は、直前にクウェートの東海岸に海兵隊を集結させ、イラク軍が占拠している島を攻撃した。クウェートに海から上陸すると判断したイラク軍はこれに対応したが、多国籍軍の本体は、はるか西のイラク領内の砂漠地帯を進撃して、クウェートにいたイラク軍を背後から攻撃した。圧倒的な多国籍軍の軍事力にイラク軍の兵士は戦意を喪失して、多くの兵士は降伏した。結果、地上攻撃は開始100時間程度で終結し、イラク軍は、クウェートから無条件で撤退した。
環境汚染
多国籍軍に一方的に被害を被ったイラク軍は、クウェートから撤退した際、約500もの油井(ゆせい)と呼ばれる原油を掘る井戸を砲火し、膨大な石油が燃え上がり、大気汚染をもたらした。また、ペルシャ湾に原油を放出して深刻な環境汚染をもたらした。
フセインの残留
イラクのクウェート侵入を指導したフセイン大統領は、湾岸戦争に敗北したものの、その地位を保ち、湾岸戦争後、クルド人らによる独立運動の弾圧に成功した。
ブッシュの敗退
アメリカのブッシュ大統領は、湾岸戦争で勝利したものの、選挙で、クリントン大統領に破れ、政治の第一線から姿を消すこととなる。
クルド人保護区
湾岸戦争後もイラクによるクルド人弾圧が続いたため、アメリカ、イギリス、フランスは、1991年4月、「クルド人保護区」を設定し、北緯26度以北でのイラク軍機の飛行を禁止した。
シーア派保護
南部の少数派イスラム教徒のシーア派への弾圧をやめさせるため、北緯22度以南でのイラク軍機の飛行を禁止した。
プロパガンダ
ベトナム戦争において、負傷した兵士や苦しむ住民の姿が、テレビを通じてアメリカの家庭に届けられ、反戦運動や厭戦気分を高めたことから、アメリカ軍は、徹底した報道管制を実施した。
日本への批判
湾岸戦争に対して、日本は経済的支援を行ったにもかかわらず、軍隊を現地に派遣しなかったため、特にアメリカの政界から批判を受けた。以後、PKO活動への自衛隊参加など、日本が国際貢献のあり方に対して議論が起こった。