浄土真宗(真宗・一向宗)|親鸞,絶対他力と自然法爾

浄土真宗

浄土真宗(真宗・一向宗)は親鸞によって開かれた宗派。鎌倉時代に新興で開かれた仏教のひとつである。法然の教えを発展させて報恩感謝の念仏を説き、その念仏すら阿弥陀仏のはからいであるという、絶対他力の教えを特徴とする。浄土真宗は、室町時代中期に蓮如(真宗中興の祖)が出てから急速に発展し、主として下級武士、商人、農民の間に広がった。本願寺を本山とするが、1602年、相続問題で東西に二分した。それが今日の大谷派(本願寺)と本願寺派(西本願寺)である。

目次

絶対他力

絶対他力とは、他力の中の他力としての、真言宗の根本思想となる。救いのすべてがまったく阿弥陀仏の力とはからいにより、まったく人間の自力によるのではない、ということ。絶対的な阿弥陀仏の力によってなされる。親鸞の到達した他力信仰のあり方で、法然の他力をさらに進め、念仏すら自力でするのではなく、仏の慈悲がそのようにさせるのであると説き、他力信仰を徹底させた立場である。救いが人間側の努力によるものでなく、まったく阿弥陀仏の本願によるものだとする境地を表現している。

自然法爾

すべては阿弥陀仏のはからいによるおのずからなる働きであるということ。また、その仏のはからいのままにまかせること。親鸞の絶対他力の立楊を示すもの。

報恩感謝の念仏

報恩感謝の念仏とは、阿弥陀仏の大慈悲 (救い)に感謝してとなえる念仏のことである。親鸞によれば、念仏をとなえることにより救われるという自力の要素を否定し、阿弥陀仏の救いを信じるときに往生が定まり、念仏は救われていることへの感謝である提示した。親鸞は、法然の専修念仏の教えを推し進めて、他力の念仏へとさらに純粋化したということができる。

悪人正機

悪人正機は真言宗の基本となる思想である。親鸞が書いた『歎異抄』のなかで説かれている。親鸞は、阿弥陀仏は、みずからの力では悟りを開くことのできない人々を救うために、四十八願を立てた。従って自力で功徳を積むことのできる善人よりも、煩悩という悪にとらわれた煩悩具足の凡夫という自覚を持つ悪人こそが、阿弥陀仏の救いにふさわしいとした。救いは、阿弥陀仏の人間を救おうという誓い(本願)によるのであって、人間側の努力によるものではないという、親鸞の絶対他力の思想が端的に表現されている。

いわんや悪人をや

「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」は、『歎異抄』に記されている親鸞の言葉であるが、親鸞は師の法然から聞かされたものを、弟子の唯円に対して語ったとも考えられている。ここでいわれている「善人」「悪人」とは、それぞれ、修行をして功徳を積むことによって悟りを開こうとする人(善人)と、悩みにとらわれて自分の力では悟りを開くことができない人(悪人)をさす。悪人正機説に基づき、みずからの力で悟りを開こうとする人すらも阿弥陀仏は救うのだから、自分の無力さを自覚して阿弥陀の救済にすがっている人は、当然救われるという考え。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや悪人をやと、この条(ことわり)、一旦、そのいわれあるにたれども、本願他力(仏の救い)の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、阿弥陀の本願にあらず。
く(『歎異抄』)

悪性さらにやめがたし。こころは蛇蝎のごとくなり

『歎異抄』の親鸞の言葉で、悪性さらにやめがたし。こころは蛇蝎のごとくなり(私の悪い性質はなくすことはできない、心には蛇やのような悪がひそんでいるかのようだ)と述べ、親鸞は、悪人としてのみずからの本性を率直に見つめ、そのような悪性をやめがたい人間をも救う阿弥陀如来の他力にすがり、その慈悲への感謝の心を抱いて生きよと説いた。

還相

中国浄土教の影響を受けて、親鸞が『教行信証』で往相廻向(おうそうえこう)とともに論じたもの。「己の功徳を以て一切衆生」におよぼし、ともに往生しようというのが往相、逆に、往生した浄土から穢土も現実世界に帰ってきて衆生を仏の教えに向かわせようというのが還相である。

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