武市半平太|土佐勤王党

武市半平太

武市半平太は、文政12年(1829)、武市半平太は土佐の長岡郡で生まれる。身分は白札。(白札は上士と下士との間の身分で、胸に白札をつけていたことからそう呼ばれる。)剣術に優れ、熱心な尊皇攘夷の志士であった。安政元年(1854)に、城下に小野派一刀流の道場を開く。安政3年(1856)には江戸に出り、桃井春蔵(ももいしゅんぞう)の士学館で鏡新明智流(きょうしんめいりゅう)を習う。免許皆伝で、川で侍たちが放り投げたスイカを切れるか、という訓練をしていたが、武市半平太瑞山だけがスイカを空中で切り捨てたという逸話が残っている。

武市半平太

武市半平太

目次

土佐勤王党の設立

文久1年(1861年)、武市半平太は土佐藩の躍進を願い、土佐勤王党を設立する。土佐勤王党は、藩論を勤王にまとめ、藩主を擁して朝廷に取り入り、幕府に攘夷を決行させることを目的としていた。のちに亀山社中に入る池内蔵太(いけくらた)や陸援隊の中岡慎太郎坂本龍馬などが含まれる。ほとんどは下士だった。幕末でもっとも血を流したのは土佐藩の人間であったが、土佐勤王党のメンバーも多くの人間が生命を落とした。

武市半平太の妻

武市半平太の妻

坂本龍馬

武市半平太の妻は家の庭先で小便を行う坂本龍馬に困ってやめるよう申し出た。武市半平太は坂本龍馬が将来、国を動かすほどの人物になることをあげ、許すよう依頼した。

吉田東洋の暗殺

開国はの藩参政・吉田東洋を暗殺して藩政の実権を握る。藩主の山内豊範を上洛させることに成功し、ともに京都に上り、朝廷工作を行うが、8月18日の政変をきっかけに朝廷の尊皇攘夷派が失脚し、公武合体に心変わりした豊信の命令で武市半平太他、勤王党のメンバーが捕縛される。

死去

土佐勤王党は弾圧を受け、武市半平太もまた吉田東洋を殺した疑いがかけられ、投獄さらた。慶応元年(1865)、武市半平太は獄中で切腹した。最後まで吉田東洋の殺害を否定している。(定説では那須信吾(なすしんご)だと言われている。)なお、武市半平太の弟子である岡田以蔵も同時期に捕縛され、斬首された。