弥生時代|金属器と水耕栽培が日本に入ってきた時代

弥生時代

弥生時代は、紀元前6-5世紀ごろに北九州からはじまった農耕や金属に特徴づけられた文化で、紀元3-4世紀ころまでをいう。弥生時代の名称は、縄文時代と同様に弥生式土器と呼ばれる土器によって名付けられた。弥生時代の文化を弥生文化という。弥生式土器の製作水稲耕作の開始、金属器の使用がその文化の特色だが、大陸系の磨製石器も大量に使用され、織物技術なども習得された。弥生文化は、北九州にはじまり、約1世紀ほどの間に畿内から東方に及んで、関東・東北へと広がっていった。その文化を土器の編年により前・中・後の3期に区分する。

目次

金属器時代

金属器時代にはいり、農耕・牧畜が行われるようになると、それまでの採集・漁労に頼っていた生活に比べ、生産力が極度に増大した。紀元前3000年頃、オリエントといわれるエジプトやメソポタミアで銅・錫の合金である青銅器が用いられるようになり、紀元前2000年ごろにはもっと融点の高い鉄器が使われるようになった。それら金属器は利器として戦争や征服が起るものの、一方で文字が使用され、遠方の国との交流・交易も可能となり、国家が成立した。こうして、世界四大文明と言われる、エジプト・メソポタミア・インド・中国で文明が勃興した。特に中国では紀元前3000年頃に青銅器文化がはじまり、紀元前600年ごろの春秋・戦国の時代になって鉄器が用いられるようになった。紀元前221年に泰が中国を統一し、紀元前202年には漢がこれに代わるが、この紀元前3世紀ころに、日本には農耕が伝えられ、同時に金属器も伝えられた。

外来文化

前漢武帝(在位前141-前87)が紀元前108年に北部朝鮮を征服して、楽浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・玄兎(げんと)・真番(しんばん)の四郡を置き、中国同様に朝鮮でも文化の発達を見せていた。日本の弥生文化は、おそらく朝鮮から伝わったとされている。弥生文化は朝鮮の人々が集団で日本に来たか、大陸との関わりの中でしだいに受容されてきたかの議論が分かれる。

古代国家の成立

水稲耕作は非常に高い技術であり、当時、狩猟を中心としている縄文時代にその影響は甚大であった。弥生文化は、水稲耕作によって特徴付けられる。多くの文明がそうであったように水稲耕作は、富の蓄積、貧富の差、階級を発生させた。九州から畿内を中心に多くの小さな原始小国家(クニ)が成立し、金属器の使用ともあいまって、古代国家が成立した。

弥生時代 前期

.遠賀川式土器を使用。北九州から中部・関東・東北にも伝播した。代表遺跡は板付(福岡)・立屋敷(福岡)・唐古(奈良)・砂沢(青森)である。

弥生時代 中期

北九州では須玖式、中国・畿内で櫛目文。代表遺跡は須玖(福岡)・垂柳(青森)。

弥生時代 後期

櫛目文土器が九州・東日本に波及した。高床式倉庫があらわれる。国内で青銅器製造。代表遺跡は登呂(静岡)・弥生町(東京)

弥生式土器

弥生式土器の名称は、1884(明治17)年に東京本郷弥生町(現在の東京大学付近)ではじめて発掘されたのにちなんで名付けられた。縄文式土器と比較すると、弥生時代には技術が進歩している。器形を整えるためにろくろが使用されるようになり、同形のものが大量に生産されるようになる。1200°Cくらいの高温で焼き固めたため強度もあがった。文様はないものか、わずかで、簡単な条線文となり、色も赤褐色がかっている。形式は口縁部のくびれた壺形のものと甕形のものが多く、前者は貯蔵用に用いられて、装飾もされており、後者は煮沸用のもので、装飾はほどこされていない。ほかに、鉢・高杯などは食物を盛るために用いられた。

金属器

弥生時代は、金属器が用いられるようになったが、青銅器と鉄器が同時に伝わり、青銅器は祭祀品・奢侈品に、鉄器は武器・農具・漁労具・工具として使われた。青銅器ははじめ大陸から実用の製品がもたらされ、中期の北九州墳墓の副葬品として発見されるが、日本での鋳造ができるようになると、銅剣・銅矛・銅や銅鐸のような祭祀品、腕輪、指輪などがつくられた。

石器・木器

弥生時代の初期は、金属器と石器の両者がよういられたが、後期には鉄器が一般化していく。石器は磨製石器が多くなって、鋭利なものとなり、この時代特有の石器として石包丁が多く使われ、石鋤・紡錘車などがつくられた。
金属器の使用によって、木器の製作が容易になった。鉢・椀・皿などの容器であり、弓などの武器、舟などがあるが、とくに農耕具である鍬・鋤・まぐわ・杵・臼・田下駄・田舟などは日本に発展をもたらした。その他、装飾品として、玉製品(碧玉・硬玉)、ガラス製品などもつくられた。

水稲耕作

水稲耕作は、弥生時代の大きな特色がある。華南から南部朝鮮を経て北部九州に伝えられ、北部九州から短期間に日本中に広まっていった。昭和初期に、宮城県枡形囲貝塚出土の弥生式土器に稲の刈痕が発見されて
以来、弥生文化が農耕をともなうことが確認された。奈良県唐古遺跡からは多くの木製農具が発見され、静岡県登呂遺跡で1947年から発掘調査が進められると、弥生時代の集落・水田の全容が明らかになり、多数の木製農具も発見された。また、銅鐸に描かれた寝つきや穀物倉の絵なども、弥生時代の農耕生活の様子を示す。

墳墓

弥生時代の墳墓は、地域によってそれぞれ大きな特色をもっている。北九州の甕棺墓、近畿の木棺墓関東の土坑墓などはその代表で、方形周溝墓は日本本州の広範囲で使われた。弥生中期には、共同墓地の一隅にではあるが、舶載品を主とする豊富な副葬品をもつ、権力者と考えられる墓が見つかった。

信仰

農耕の生活は新しい信仰をもつようになったと考えられる。農耕にとって、天候は第一の関心事になり、しだいに太陽、雨、風、河川などへの精霊が強くなった。いわゆるアニミズムである。精霊をまつり、それを崇め、怒りを和らげて豊作を祈る自然神への信仰が強まっていった。現代の日本にも残る各地の祈年祭や新嘗祭は、弥生時代の農耕儀礼への関係を示唆している。

シャーマニズム

弥生時代には巫女(シャーマン)が出てきたとされている。農耕社会では神の声を聞き、それにしたがって農事を決定していったと考えられているが、神の声を聞く巫女の地位は高まっていく。その地位は世襲されは巫女は族長を兼ねるようになり、権力を集中させていった。