王政復古|江戸幕府から朝廷へ

日本の王政復古

王政復古とは、天皇親政の形式のもとで、天皇を頂点に置き、諸藩連合政権をつくることを目的とした。鎌倉幕府以前の天皇親政に復帰するようなイメージで政権をとらえたため、王政復古といわれた。

目次

王政復古計画

1867年5月、15代将軍に就任した徳川慶喜は島津久光・山内豊信・松平慶永・伊達宗城ら四候と、兵庫開港の勅許に関する会議を開いた。その際、島津久光は幕府の外交権を諸藩側に接収することを目指すが、徳川慶喜の反対と四侯の意見不一致により挫折する。その後、長州、芸州や朝廷内部の同調者との連携を強め、9月に王政復古計画を決定することになる。

王政復古の大号令

1867年12月9日、薩摩藩・土佐藩・芸州藩・尾張藩・越前藩の五藩の藩兵が御所のすべての門を固めた上で、かねてから打ち合わせてあった公卿・藩主だけが参内し、明治天皇臨席のもと、王政復古の大号令が下される。また、幕府・摂関の廃止とそれに代わる総裁・議定・参与の三識を定めた。

三職

総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には三条実美ら、参与には岩倉具視、薩摩藩、長州藩、土佐藩など五藩の藩士らが任じられた。議定・参与の構成は薩摩藩らの討幕派と土佐藩らの公議政体派の二派の均衡を保ちながら、決定された。

小御所会議

王政復古の大号令が発せられた同夜、小御所において二職による会議が開かれ、徳川家の処遇について話し合われた(小御所会議)。この会議で、公議政体派は将軍を新政府に加えることを提案し、討幕派は将軍の辞官納地を主張。結局、辞官納地が決定した。このあいだに諸藩の藩主がぞくぞくと上洛し、藩主らの公論により一時は公議政体派が主導権を握るようになる。最終的に辞官納地が決定した徳川慶喜は2月2日、二条城を出て大坂城に入ることとなった。

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