山崎闇斎|垂加神道(闇斎学),朱子学と神道の融合

山崎闇斎

山崎闇斎(1618~82)は江戸時代前期の朱子学者で神道を学んだ。敬と義を原理とする 理を説き、厳格な修養主義を主張した。また、朱子学者でありながら、神道を学び、儒学と神道を結びつけ垂加神道をとなえた。朱子学と神道における山崎闇斎の門弟は、佐藤直方や三宅尚斎(しょうさい)をはじめ数千人に及んだと伝えられている。

目次

山崎闇斎の略年

1618 京都の町医者の子として生まれる。
1632 京都の妙心寺に入り僧となる。
1643 還俗し、儒者となる。『闘異』を著し、仏教を排し儒教を尊する立場を表明する。
1665 4代将軍家綱の後見人である保科正之の賓師となる。
1671 吉川惟足から吉田神道の伝授を受け垂加の号を授けられる。
1673 保科正之の葬儀に出席し、以後京都に留まる。
1682 死去

山崎闇斎の生涯

山崎闇斎は京都の針医の子として生まれ、14歳ごろから京都の妙心寺に人って僧となったが19歳のころ土佐に移る。土佐で、南村梅軒から始まる南学派の朱子学を知り、25歳の時、僧籍を離れ、朱子学者の道を進んだ。
その後、京都に戻り、朱子学を講じ、38歳の時、京都において朱子学の講席を始めた。40歳ごろになると江戸と京都を往来してその両地で弟子を持つほどになった。その後、会津藩主保科正之が山崎闇斎に師事したのをきっかけにその名をあげた。
朱子学だけでなく会津藩とのかかわりで神道を学び、垂加の号を得、垂加神道を起こした。

山崎闇斎の朱子学の特色

山崎闇斎の朱子の特色は、心身を分けずに一体のものととらえ、心身ともにつつしむこととして「敬」を強調した点にある。主体としての心が確立されてから心が身を修めるという考え方、あるいは身から離れた次元で心をとらえるのではなく、身をつつしむことそのものの意義を強調し、心身相即のうちに心のあり方を打ち立てようとした。
また、人倫的存在は儒教の伝統的人間観であるが、山崎闇斎は特に君臣関係を重視して臣下の側から絶対的中世を重んじた。そして、このような「敬」としての「道」は絶対不変のものであり、日本においては神道という固有の場として顕現するとし、儒道二道を唱えた。

垂加神道(闇斎学)

山崎闇斎は朱子学者の立場でありながら、神道からの儒学的展開を試み、秘伝を組織して神道説を提唱した。林羅山などこれまでの江戸初期の儒学者は、朱子学における形而上学の基礎づけに日本の神道を用いたのを、山崎闇斎は、神道を儒教から理解するのではなく、神道から儒教を理解しようとしたのである。
山崎闇斎の提唱した朱子学を垂加神道あるいは闇斎学と呼ばれる。「神代巻」と「中臣祓」の再解釈を通じて構成された闇斎独自の神道説は、垂加神道と呼ばれ、大きな影響力をもつこととなった。

南学派

南学は朱子学の学派のひとつで土佐の南村梅軒(生没年不詳)が朱子学を講じたことから始まった。その教えは谷時中(1599-1649)にひきつがれ、南学の祖とされる。(実在しないという説もある。)山崎闇斎はその流れから出た。