将軍継嗣問題|14代将軍の跡継ぎ問題,徳川慶喜と徳川慶福の対立

将軍継嗣問題

13代将軍の徳川家定は、病弱の上、2度結婚したが世継ぎができなかった。それに伴い、将軍継嗣(跡継ぎ)問題が起こってくる。黒船が来航し、その交渉中の中で起こったため、幕政は混乱を極めた。将軍継嗣の候補は、攘夷を掲げる一橋家の徳川慶喜と、開国派である紀伊藩主の徳川慶福との対立が生まれる。政争の中、徳川慶福が14代将軍徳川家茂として正式に就任した。

目次

徳川慶喜

御三卿の一つであった一橋家の当主徳川慶寿が重態となり、幕府は徳川斉昭(前水戸藩主)の七男の徳川慶喜を一橋家の養子として相続させる。徳川慶喜は、徳川慶福が幼かった事に対し、成年で知性に優れていた。藩主は、德川斉昭(水戸藩主) 、松平慶永(越前藩主) 、島津斉彬(薩摩藩主) 、外様大名の支持を集めた。

德川慶福

紀伊藩主 德川慶福(家茂) は開国派で将軍との血統が近かったが、当時わずか12歳だった。井伊直弼(彦根藩主) 、幕府の要職を占めていた譜代大名の支持を集めた。

情勢

当時は、江戸幕府末期で、混乱期であった。内政的には、尊王攘夷派と開国派が対立を深め、内戦の危機であった。外交的には、ペリーが来航以来、幕府は過酷な交渉をつづけ、アメリカのハリスやロシアのプチャーチン、そのほかイギリスやオランダとの通商条約の交渉中での、将軍継嗣問題であった。幕府の外交方針が決定づけられる人事のため、混乱が生まれた。

徳川慶喜擁立

14代将軍には、ペリー黒船来航を始め、欧米列強の帝国主義に対応する、極めて責務が重く、この難局を突破できる人材が求められた。徳川慶喜は高く評価されており、越前藩主の松平慶永(春嶽)を始め、薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内豊信(容堂)、宇和島藩の伊達宗城ら、一橋派の大名が動きを見せた。

徳川慶福擁立

徳川慶喜擁立の動きが見えてくると、徳川家定の生母本寿院は、徳川慶喜の擁立は、我が子への情と、大奥などで評判が悪い上、好ましくない徳川斉昭の息子であったため、これに反発。譜代大名ら南紀派が、将軍の血筋を主張してまだ12歳だった紀伊藩主の徳川慶福を次期将軍候補として擁立した。

14代将軍徳川家茂(慶福)の誕生

一橋派の徳川斉昭は天皇を動かし、徳川慶喜の将軍擁立に向け画策する。この動きを見た南紀派は、1858年4月23日、彦根藩主井の井伊直弼を大老に就任させる。井伊直弼は専制政治を行い始める。1858年6月には無勅許のまま日米修好通商条約の調印に踏み切る一方で、諸大名にたいし、徳川慶福の時期将軍決定を発表。開明派の大目付の土岐頼旨、勘定奉行の川路聖謨らを左遷した。7月に入ると徳川家定が逝去したため、徳川慶福が14代将軍家茂として正式に就任することで、将軍継嗣問題が決着する。