タウンゼント・ハリス|日米修好通商条約,初代駐日総領事

タウンゼント・ハリス Townsend Harris

タウンゼント・ハリス(1804.10.3 – 1878.2.25)はアメリカの外交官である。初代駐日総領事館を務めた。1804年、アメリカ・ニューヨーク州北部のサンデーヒルに生まれた。陶磁器などのビジネスで成功を収め、のちのニューヨーク市立大学を設立した。駐日大使になってからは、日米修好通商条約を締結させた。幕府とは厳しい外交交渉を展開したが、性格は温厚で日本の人々や文化に親しんだ。

ニューヨーク市立大学の設立

タウンゼント・ハリスは、ニューヨークで陶磁器などの輸入商人として成功を収め、1846年にはニューヨーク市教育委員会の委員長を務めた。移民や貧民をも含むニューヨーク全市民を対象とした無料の大学設立にも尽力し、これは、のちにニューヨーク市立大学となる。

初代駐日総領事に任命

1855年、ビジネスの成功と教育委員会の功績を評価され、ピアース大統領から初代駐日総領事に任命される。1856年7月21日、ハリスを乗せたサン・ジャシント号が下田に来航した。そして、ハリスは船を降り、下田の玉泉寺に入る。1856年7月25日、下田奉行と会見し、和親条約を補う条約の締結を求めた。加えて、新たな通商条約の締結も要求する。8月5日には、下田柿崎玉泉寺に米国総領事館開設や玉泉寺境内に日本で最初に星条旗を掲揚された。

日米協定(下田協約)

1857年4月5日、下田奉行の井上清直、中村時万とハリスとのあいだで、和親条約改定される。5月26日日米和親条約を補う条約として九ヵ条からなる日米協定(下田協約)が締結さた。この協定には長崎開港や領事裁判権など、のちに結ぶ修好通商条約の不平等事項目がすでに含まれてた。貨幣交換率も定められた。

下田住民との交流

下田に着任したハリスの最初の要求は江戸駐在だったが、交渉は思うように進まなかった。江戸へ移るまで、数ヶ月を必要としたが、ハリスは下田で野菜を植え、散歩をするなどして、住民との交流を行った。その後、ハリスは江戸に移ることになるが、下田の人々によって手づくりの星条旗が贈られ、これを掲げながら江戸に赴任した。

徳川家定への謁見

ハリスは直接、将軍に謁見することを求めたが、幕府はこれを拒否。代わりに江戸に屋敷をつくるように、との要求も出したが、幕府は再び拒否する。しかし、ハリスは大統領の親書は相手国の元首である将軍徳川家定に直接手渡すのが国際的慣行であると主張。幕府は譲歩し、1857年10月21日、徳川家定はハリスと会見し、通商については老中の堀田正睦と相談するように、と伝えた。このとき、将軍徳川家定は畳を七枚重ね、その上に曲彔(きょくろく)と呼ばれる椅子に座り、目線を合わせて会談した。ハリスは、将軍徳川家定との謁見後も江戸に留まり、堀田正睦と会見を重ね、通商の必要性を力説する。

日米修好通商条約の調印

1858年1月14日、ハリスは、幕府の外交を担っていた岩瀬忠震(いわせただなり)との間で条約交渉は妥結する。老中堀田正睦が川路聖謨を同行し勅許を得るため京都に向かうものの、朝廷は調印拒否した。(3月20日)。4月23日、交渉を繰り返していた堀田正睦が失脚し、反対派の彦根藩主の井伊直弼が大老に就任する。条約の締結が困難になるため、ハリスは、岩瀬忠震の懇願により日本がイギリスやフランスとの交渉の際は間に立つことを確約する。同年6月19日、アメリカ軍艦「ポーハタン号」上で朝廷からの勅許がないまま日米修好通商条約の調印が強行された。

帰国

1858年4月ハリスは公使を辞任し、アメリカ帰国する。この際、幕府は任期延長を求める書簡をアメリカ政府に送っているが、このことはハリスと幕府との間に一定の信頼関係が築かれていたことを示唆している。

死去

1878年2月25日、病死により死去する。

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