安政の大獄|井伊直弼

安政の大獄

安政の大獄とは、1858年に大老井伊直弼が行った、幕府の反体制派であった水戸派、志士、公家、学者らへの弾圧である。幕府の調印に激怒した孝明天皇は水戸藩へ幕政改革を求める密勅を下すが、井伊直弼はこれを水戸藩による幕府転覆の陰謀とし、水戸藩に密勅返納を命じ、関係者を処罰した。約100人にのぼる。安政の大獄を理由に有力政治家を排除したため幕府が弱体化だけでなく、井伊直弼の暗殺につながる。

目次

安政の大獄の背景

孝明天皇が、無勅許のまま日米通商条約の調印を起こった幕府に対し、1858年8月勅諚をだし、幕府に対し反対する姿勢を見せた。孝明天皇は水戸家に対しても勅諚を送り、御三家や列藩(諸藩)に回覧させようと図る。なお、勅諚は井伊直弼派の関白九条尚忠が不在のときに決定された。(戊午の密勅)
戊午の密勅は幕府を通さずに行われたため、井伊直弼は激怒し、朝廷が幕府の政治に口をはさむことは秩序の混乱を招くとし、戊午の密勅に暗躍した一橋派や尊王攘夷派への弾圧に乗り出した。

安政の大獄

安政の大獄

梅田雲浜と近藤茂左衛

1858年、井伊直弼は福井藩士の橋本左内(はしもとさない)を取り調べ、元小浜藩士梅田雲浜(うめだうんぴん)尊攘派公家(公卿)の 連絡役を務めた豪商近藤茂左衛を捕縛したことから始まる。梅田雲浜は最初に捕らえられ、安政6年9月14日に獄中死であった。このとき、学者梁川星巌も捉えられたが、安政5年にコレラにより死去している。

逮捕者の拡大

密勅を伝えた水戸藩・京都留守居役、鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)が江戸の同士に宛てた手紙が幕府に渡り、そこに井伊直弼暗殺計画が記されていたことから逮捕者が拡大していく。

一橋慶喜(徳川慶喜)・一橋派

一橋慶喜(徳川慶喜)は23歳隠居を命じられる。隠居が解かれるのは、桜田門外の変の後であった。また、一橋派については、将軍継嗣と条約の無勅許について井伊直弼に意見するために決められた日以外に登城したことを理由に排除した。

徳川斉昭・徳川慶勝・松平慶永・慶篤

前水戸藩主の徳川斉昭は謹慎、尾張藩主の徳川慶勝と越前藩主の松平慶永は隠居・謹慎。徳川斉昭の子、水戸藩主の慶篤は登城停止になっている。幕臣では岩瀬忠成、川路聖謨などが処罰を受けた。

桜田門外の変

桜田門外の変

山内容堂(やまのうちようどう)

山内豊信(やまのうちとよしげ)も、慎という処分を受け、隠居後、山内容堂と名を変える。隠居後は月代を伸ばし、登城はしなかった。

尊王攘夷派と戊午の密勅

開国に反対していた尊王攘夷派は、京都の公卿に働きかけ、朝廷が水戸藩に対し、幕府の政策について不満であるという旨の勅語(天皇の命令)をだした。これを戊午の密勅と呼ばれる。これに対し、井伊直弼は激怒し、京都で運動する志士を逮捕していく。水戸藩への密勅を画策した頼三樹三郎、越前藩士の思想家橋本左内、長州藩の吉田松陰である。

公家の弾圧(近衛忠熙、三条実万)

青蓮院、近衛忠熙、さらに三条実万ら反対派の公家を次々と出家や謹慎とした。公家に出入りしていた儒者の頼三樹三郎も逮捕され、1859年に頼三樹三郎が刑死されている。

西郷入水事件

京都で井伊直弼罷免や徳川奔昭の処分解除要求の活動を行っていた西郷隆盛にも弾圧の余波は迫っており、薩摩藩に戻ることになる。その際、一橋派に協力した近衛忠熙から僧月照の保護を依頼されるが、藩主の島津斉彬は、薩摩藩の弱体化から、月照を追放することを決断。
進退極まつた西郷隆盛は、月照とともに錦江湾(きんこうわん)に入水自殺をはかる。西郷は旧福岡藩士の平野国臣によつて救助されるが、月照は助からなかった。薩摩藩は、2人とも死亡したと偽って報告し、西郷隆盛は、奄美大島に潜伏することになる。

橋本左内(はしもとさない)

福井藩士の橋本左内は攘夷に固執する孝明天皇を批判し、開国や外国との貿易促進などの自論を展開したが、1859年10月に「公儀を憚らざるいたし方、右始末不届に付」という理由で死罪となる。

吉田松陰

吉田松陰は密勅にはほとんど関係しなかったが、ペリーが再来航したときに海外事情を聞くべく密航を企て、長州藩で幽閉されていた。そのときの取り調べで、老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を示唆したため、死刑となる。1859年10月27日に刑死した。

井伊直弼の暗殺

井伊直弼は水戸藩に密勅の返納を命じた。その対応をきっかけに水戸藩での対立が激化する。井伊直弼に反対派は脱藩した後、薩摩藩士の過激派の協力のもと、1860年3月3日、井伊直弼を暗殺する。

タイトルとURLをコピーしました