小野妹子|遣隋使,託された日出づる処の天子の国書

小野妹子

小野妹子は第二回目の遣隋使として隋に派遣された。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を煬帝に提出した。このことが中国の冊封体制を受けず、以降、日本は、対等な関係として中国との外交を行うこととなり、朝鮮に対してはその優位性を誇示した。

第二回目の遣隋使

600年の遣隋使派遣以来、607年に二回目政府は2度目の遣隋使を派遣した。隋大使として冠位大礼の小野妹子、随員に通訳の鞍作福利(くらつくりのふくり)以下、数百名を任命した。

第二回目の遣隋使の目的

第一回目の遣隋使の目的は、隋が中国を統一した機会をとらえて、加羅(から)(任那(にんな))の調(みつぎ)確保のために新羅と戦いをかまえる計画がわが国にあることを、隋に告知することにあった。第二回目の遣隋使の目的は、軍事目的よりも、文化摂取に主眼がおかれている。

第二回目の遣隋使の目的:仏教の摂取

小野妹子の目的は隋の復興した仏教を本格的に摂取することである。中国では南北朝時代に北周が廃仏政策を断行したが、隋は中国統一にともない、仏教の国教化を宣言していた。このたびの遣隋使には数十人の僧侶が随行しており、数年にわたり仏教研修の任務にあたることになっている。

第二回目の遣隋使の目的:儒教の搾取

中国の国家体制の根幹をなす儒教の礼制を学ぶことが目的であった。第一回目の遣隋使では、礼制がかけているとして中国から批判され、聖徳太子は、札制の中心をなす冠位十二階を設定し朝参・朝政が設定された。第二回目の遣隋使では、さらなる礼制がさらに本格的に搾取・導入しようとした。

日出づる処の天子

小野妹子らは聖徳太子から国書を携えて隋に向かい、隋の皇帝場帝に国書を提出した。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや。」という言葉が書かれていた。日本の天皇と中国の皇帝を同格の天子であるとした点、日本を日出づる処、隋を日没する処と称したという点で、同格か、あるいは下に見ていると解釈できる。煬帝(ようだい)は激怒した。

裴世清

煬帝は国書に対して激怒したが、小野妹子が帰国する際、裴世清(はいせいせい)を日本に遣わした。国際的戦略上の日本の役割を無視できなかったためである。

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