天保の大飢饉

天保の大飢饉

天保の大飢饉とは、江戸後期におきた飢饉。期間に関しては諸説あるが、1833年~1839年まで続いた。奥羽から関東にかけての天候不順が原因。米不足は全国に広がり農村や都市で貧窮が広がる。全国で大規模な百姓一揆、打ちこわしが続発したが、幕府・諸藩の対策は不十分であった。

目次

陸奥国・出羽国

東北地方の陸奥国・出羽国では特に被害が大きかった。仙台藩では、洪水や冷害に対応するため、100万石あった資産をつぎこんだが、対策が新田の開拓に偏向していたため、被害が最も甚大であった。

江戸幕府の対応

江戸幕府は、窮民救済のため、二度にわたって施し米の配布、神田佐久間町河岸など21カ所に「御救小屋(おすくいぐや)」を設置して、米や銭などを施しを行った。そのおかげで天保の飢饉が全国規模であったにもかかわらず、打ちこわしが行われなかった。

大塩の乱(大阪)

大塩の乱とは、1837年2月、大坂対町奉行所の元与力であった大塩平八郎が起こした大規模な武装蜂起した事件。元幕臣の大塩平八郎が中心となり武力反抗したことで、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。
天保の飢饉は大坂でも例外ではなく、餓死者や村方への物乞いが現れた。大塩平八郎はこれを危惧し、町奉行所に窮民救済のため、天満の幕府米倉の解放を建言し、鴻池らの豪商にも救済を願い出たが、幕府や豪商はこれを拒否。窮民を放置する一方で、富商らは米の買い占めによって暴利をむさぼり、町奉行所は大坂の米を町奉行みずから大量に江戸に廻送した。
大塩平八郎は、これにたいして激怒し、窮民救済のため、蔵書を売り、窮民にこれを分け与える一方で、 1837年2月、門弟や民衆を動員して武装蜂起する。しかし門弟の密告で挙兵がもれ、わずか半日で鎮圧され、大塩は自害に追い込まれた。

生田の乱

生田の乱とは、国学者生田万(いくたよろず)が、大塩の乱がおこった事件を受け、大塩門弟と称して越後柏崎(えちごかしわざき)の代官所を襲撃した。