遣隋使|聖徳太子による隋との外交,小野妹子

遣隋使

聖徳太子が中国の文化や仏教、技術、学問を取り組むため、隋に遣使を派遣したが、彼らを遣隋使といい、数回派遣した。小野妹子に持たせた国書には大国である隋にたいし、冊封体制から抜け、大きな影響を与えた。小野妹子や犬上御田鍬が代表で、留学生や留学僧が随行している。

目次

軍事制圧の挫折

聖徳太子は、欽明天皇以来、朝鮮半島の任那日本を再興しようとしていた。597年、新羅に使を派遣し、600年には境部臣を派遣し、5城を抜かせ、602年、603年にも出兵を試みたが、見通しは暗かった。聖徳太子は、かって拠点であるような任那なような場所を置くことを断念し、隋に使節を派遣し、大陸文化を摂取して、国力の充実をはかろうとした。

隋の台頭

そのころ中国大陸では、北周から出た隋の文帝が、589年に南朝の陳を滅ぼして中国統一を完成した。文帝に次いで即位した場帝は、612年より高句麗大遠征を行った。当時、中国大陸を制覇した隋に対し、聖徳太子は、遣隋使を派遣したが、5世紀末の倭王武の遣使以来、中国王朝との国交を再開するものであった。

600年 最初の遣隋使

『隋書倭国伝』によれば、600年に最初の遣隋使が派遣されているが、日本の記録には残っていない。

607年 小野妹子

607年、『日本書紀』では小野妹子を隋に派遣し、隋と対等の立場で国書を持参した。その国書には日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや。」と書かれており、自らを煬帝と同じ天子としたことだけでなく、東にある日本を太陽が昇る天子であり、西にある場帝を太陽が沈む天子としたところで、煬帝は激怒したが、承知し、答礼使として文林郎装世清を日本に派遣した。歴史的にはこのときに隋の冊封体制から抜け、日本の後世に影響を与えた。

608年 小野妹子の再派遣

608年に日本は再び小野妹子を隋に派遣し、多くの留学生や留学僧が随行した。高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)・旻(みん)らである、かれらは約30年間中国に滞在し、中国の文物や制度を身につけて日本に戻り、大化改新やその後の律令国家の建設に大きな役割を果たすことになった。

614年 犬上御田鍬の覇権

614年には犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が遣隋使として派遣された。

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