古学|新しい武士のあり方,古義学、古文辞学

古学

古学は、山鹿素行から始まった学問で、朱子学の理を重んずるところを批判し、孔子や周公旦の教えを基本とした、日常に役立つ実用的な学問を目指した。古典を重んじる文献学である。山鹿素行の士道、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠が古文辞学その代表である。
山鹿素行の士道は、江戸時代の武士の生き方の一つとして定着し、伊藤仁斎の古義学は、庶民の日常生活に役立つ実践倫理として広まり、幕末から明治維新にかけての誠の考え方に影響を与えた。荻生徂徠の古文辞学の学問的方法は、国学の方法論に活用され、実証的研究の発達を促した。

目次

古学が生まれた略年

1622 山鹿素行生まれる。
1627 伊藤仁斎生まれる。
1662 仁斎、古義堂を開く。
1665 素行、『山鹿語類』『聖教要録』を完成。
1666 荻生徂徠生まれる。
1685 山鹿素行死去。
1691 仁斎、『童子問』完成。
1704 徂徕、古文辞学を唱える。
1705 伊藤仁斎死去。
1717 徂徕、『弁道』、『弁名』を完成。
1728 荻生徂徠が死去。

古学

1615年の大坂の陣で豊臣が滅んだため、武力を重視した戦国時代が終焉を迎え、天下太平の時代が到来した。この社会変化は戦争を生業としていた武士のあり方も変化を促した。もともとは武士の目的は戦場で武勲を立てることであったが、戦乱のない泰平の時代には、存在意義が崩れてくる。戦争ない時代の、新しい武士道を模索する動きが現れてきた。そこで、兵学者であった山鹿素行は、農民や商人への規範としての武士という、新たな武士像としての士道を完成させた。

農工商の身分の者は、先業に忙しく、暇がないので、つねに道徳を学んでその道に従うことができない。武士は農工商の仕事をさし置いて、もっぱら道徳につとめ、庶民の中で人倫(社会の迫徳的な秩序)を乱す者があれば即座に罰して、天下に正しい倫理を保つ。だから武士には、文武の徳と知恵がそなわらなくてはならないのだ。

古義学

伊藤仁斎が唱えたのが古義学である。『論語』『孟子』の古典を忠実に精読して、孔子本来の思想を明らかにすべきだとした。江戸時代前期の天下太平の世にあって、豪商たちが日本全土にまたがる商品の流通経路を整えるにつれて、大坂が経済の中心地としてのにぎわいを見せ始めた。そうした中、京都の商人の子として生まれ、伝統文化に触れる機会に恵まれた伊藤仁斎は、儒学を武士だけの教養とせず、町人にも広めようと志した。彼は、はじめ朱子学を学ぶが、孔子本来の思想は仁愛であると気づき、古義学を創始し、より多くの庶民に広めた。

古文辞学

荻生徂徠が唱えたのが古文辞学である。孔子が埋想とした周公旦などの先王に関する記載がある「六経」から、先王の政治を正確に読み取ることを重視して、朱子学的な、飛躍した解釈を批判した。この時期は、5代将軍徳川綱吉が、朱子学を政治思想の中心においた文治政治を精力的に展開していた時期であり、経済も大いに発達し、町人たちの自由な経済活動に支えられた元禄文化が花開き、朱子学を中心に様々な学問が成立した時代でもある。そうした時代にあって、荻生徂徠は、朱子学のいう先王の道を批判し、後世にまで社会や人民に恩恵をもたらした為政者を聖人とし、孔子が理想とした中国古代の帝王と聖王たちが、何のために、どのように社会制度を構築してきたかに政治本来のあり方を見いだした。彼は、それを「先王の道」と名づけ、その道こそ、社会の秩序が維持され、人々が安泰に生活を営むことができる「安天下の道」だとした。


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