久坂玄瑞|長州藩,イギリス公使館焼き討ち,禁門の変

久坂玄瑞(くさか げんずい)

久坂玄瑞は、長州藩士で尊皇攘夷の中心人物である。天保11年(1840)~元治元年(1864)。長州藩の萩藩医の家に生まれた。吉田松陰が開いた松下村塾で学び、高杉晋作とともに双璧と呼ばれるほど、秀才であった。そののち、医学・洋書研究を行う。九州・京・江戸で活動していた。井伊直弼の日米修好通商条約の無勅許調印、安政の大獄などで幕府に反発、薩摩・土佐・水戸などの志士と交流し、尊王攘夷の急進論者であった。同志と脱藩後、高杉晋作らと横浜外国商館襲撃を計画、イギリス公使館を焼き打ちした。帰藩後、下関の外国艦船砲撃に参口、長州藩兵を率いて京都に進撃したが、、朝廷内の長州勢力の一掃にあい(8月18日の政変)翌年、禁門の変において自害した。

久坂玄瑞

久坂玄瑞

目次

年表

1840年 藩医の次男として誕生
1856年 九州へ遊学。吉田松陰と交流が始まる
1858年 吉田松陰の妹と結婚する
1862年 イギリス公使館焼き討ち
1863年 外国船砲撃事件に参加
1864年 池田屋事件の悲報に京へ進発を決意する。禁門の変で自害。

天保11年(1840)に生誕

久坂玄瑞は、天保11年(1840)に長門国萩にて生まれた。父親は寺社組医師の久坂良廸、兄は医師の久坂玄機であった。吉松淳三の私塾や藩校明倫館にて学び、その後は医学所で蘭学を学んだ。

吉田松陰に師事

嘉永6年(1853)から安政元年(1854)にかけて、母・父・兄を相次いで亡くし、久坂家の家督を継いだ。安政3年(1855)に吉田松陰との交流が始まる。安政4年(1856)には、吉田松陰の妹である文と結婚した。松下村塾では吉田松陰からの評価も高く、高杉晋作と共に「双璧」と称された。

蘭学や医術

安政5年(1858)、江戸遊学を行い、蘭学や医術を学んだ。京都では梁川星巌や梅田雲浜らと交流した。

吉田松陰の死

安政6年(1859年)、吉田松陰が刑死する。久坂玄瑞は衝撃を受け、師の意志を引き継ぎ、尊皇攘夷運動に身を投じた。高杉晋作、土佐藩の武市半平太、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと倒幕に向けて尊皇攘夷を進めていく。

イギリス公使館の焼き討ち

文久2年(1862)12月、高杉晋作ら長州藩の同志と共に品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちにした。

長井狼楽・毛利敬親との対立

長州の政治参謀の長井狼楽は、「航海遠略策」によって公武合体や開国貿易を説き、藩主毛利敬親に献策した。これに対して、勤王派であった久坂玄瑞は長井狼楽・毛利敬親と対立関係に陥る。

坂本龍馬との会談

文久2年(1862)、久坂玄瑞は、武市半平太の手紙を持ってきた坂本龍馬と会い、会談を行った。久坂玄瑞は、坂本龍馬に藩論や政治情勢について坂本龍馬に語り、藩を超えて異国との衝突に対応しないといけないことを説いた。

長州の失脚

文久3(1863年)の八月十八日の政変により長州は失脚した。さらに翌年の池田屋事件で大打撃を受けた。

禁門の変

八月十八日の政変池田屋事件を受け、国司信濃ら3家老が諸隊を率いて京に進軍することに決めた。久坂玄瑞は当初は反対したが、藩論が進軍に決まると、来島又兵衛等とともに進軍にむかった。元治1(1864年)7月19日、長州軍と幕府軍は京市で激突する。(禁門の変)。久坂玄瑞は久留米出身の真木和泉らと堺町御門で戦ったが、圧倒的な勢力を誇る幕府軍の物量の前に敗退をする。

死去

鷹司邸において寺島忠三郎と共に自害した。