中江兆民|東洋のルソー,日本に哲学なし,自由民権運動

中江兆民

中江兆民は明治の啓蒙思想家・政治家である。主著『三醉人経綸問答』、『一年有半』、『続一年有半』である。フランスで市民革命の思想的柱となった思想家ルソーの影響を受け、フランス流の急進的民権論を説いて、東洋のルソーと称された。中江兆民はフランス啓蒙思想の影響を受け、主権在民の民主共和制を理想としたが、まずは立憲君主制を確立し、次に君主制でありながら実質的に人民が主権をもつ君民共治制を唱え、現実的段階的な民権の実現をめざした。

中江兆民の略年

1847 土佐藩の足軽の子として高知に生まれる。
1865 土佐藩留学生として長埼に留学。
1871 フランスに留学。
1874 帰国後、自宅に仏蘭西学舎を開く。
1881 ルソー『民約論』和文訳草稿できる。
1882 東洋自由新間主筆。兆民と号す。 『民約訳解』出版。
1890 衆議院議員当選。
1891 議員辞職。数々の事業を始める。
1901 がんで死去。

中江兆民の生涯

中江兆民は、明治の思想家で自由民権論者。土佐藩(高知県)の足軽の子として生まれ、幼年より読書を好み、下級武士が中心だった尊皇攘夷派には加わらず、藩校に学んだ。18歳のとき藩の留学生として長崎に行きフランス語をおさめ、その後、江戸に出て学問に励んだ。後藤象二郎の援助で江戸に上り、フランス公使ロッシュの通訳もした。1871(明治4)年、24歳のとき、政府の司法留学生として岩倉使節団に加わりフランスに留学、パリ・コミューン後の自由な雰囲気の中、哲学や歴史、文学に親しみ、ルソーの『社会契約論』の翻訳を手がける。特にフランス流の共和主義思想の影響を受けた。日本に帰国後、「仏学塾」を開き、また『東洋自由新聞』の主筆となり、活発な言論活動を展開し、フランス流の急進的民主主義理論の鼓吹と普及につとめた。しかし、政府の圧力で廃刊したため著述活動に専念し、おもにフランスの政治論、歴史論を翻訳・紹介した。とくに、ルソーの『社会契約論』を翻訳、『民約訳解』として出版し、自由民権運動に深い影響をおよぼした。激化した自由民権運動には直接的に関与しなかったが、条約改正活動に当たり、大阪に追放された。その後、大阪で「東雲新聞」を発刊し、自由民権運動の論客として活動した。1890年には、自由民権家として衆議院議員に当選したが、翌年、自由党の土佐派が政府に吸収されたことに憤慨して3か月で辞職、その後、実業家に転身するものの失敗して政界に戻り、「国民党」を結成し、藩閥打倒をめざしたが、志かなわず没した。

自由民権運動

自由民権運動は、大隈重信に代表されるイギリス功利主義の流れと、中江兆民・植木枝盛に代表される『社会契約論』的な急進的思想に大別される。中江兆民は、フランス留学後、ルソーの『社会契約論』を翻訳し、『民約訳解』を発刊した。主権在民や抵抗権の思想が、急進派の理論的支柱となっていた。中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を紹介し、人権はとるべきものであり、もらうものでないと考えていた。しかし、自身は日本の現実を分析し、日本では革命によって一気に恢復的(回復的)人権を実現するのは無理があると考え、恩賜的民権を育て上げれば恢復的民権と同様の価値をもたせることができると説いた。また、人権は君主といえども尊重しなければならないとし、君主を否定したわけではなかった。植木枝盛は私擬憲法で主権在民を主張し、抵抗権の保障をうたった。

民権これ至理(しり)なり、自由平等これ大義(たいぎ)なり

民権・自由・平等

中江兆民は、民権運動によって民意や世論を結集し、憲法をつくり国会を開設することである。それ自体が目的ではなく、「自由権」確立のためのものであるとした。そして、自由権が人間の基本権であると主張した。

民権これ至理なり、自由平等これ大義なり。これら理義に反する者は竟にこれが罰を受けざる能はず、百の帝国主義ありといへどもこの理義を滅没することは終に得べからず。帝王尊しといへどもこの理義を軽重してここに以てその改を保つを得べし。この理や漢土にありても、猛軻、柳宗元早くこれを覰破せり、欧米の専有にあらざるなり。王公将相なくして民ある者これあり、民なくして王公将相ある者いまだこれあらざるなり、この理けだし深くこれを考ふべし。

恩賜的民権

恩賜的民権とは、統治者によって与えられる民権のことで民権の保障範囲は政府によって制限できるとする権利である。中江兆民の造語で、為政者が上から人民に恵み与えた政治参加を含む人民の諸権利であるといえる。政府主導の近代化をめざす政府は、この立場を貫いて自由民権運動と対立した。フランス革命に影響を受けた中江兆民民は批判的であったが、日本の時勢を考慮し、与えられた恩賜的民権を育てあげ、イギリスやフランスなどの恢復的民権と肩を並べるものにすることを目指した。そのためにも、国民が物事を根本的に道理に従って考えるよう、道徳をおこし、教育に力を入れることを提唱した。

恢復的民権

恢復的民権(回復的民権)は、天賦人権の回復を求める革命により、人民みずからが勝ち取った自由・平等の権利で民権の保障範囲は政府によって制限できないとする権利である。中江兆民の造語で、理想とした民権である。日本の現状を見た中江兆民は、日本の恩賜的民権を実質的に恢復的民権に育てていくべきであると説いた。

日本に哲学なし

中江兆民は日本人は自分自身でつくった哲学を持たないと指摘し、確固とした主義主張がなく、目先のことにとらわれて議論には深みや継続性がなく、小ざかしい知恵はあるが偉大なことは成し得ず、常識はあるが常識をこえたことを成すことができないことを嘆いた。

わが日本、古より今に至るまで哲学なし。そもそも国に哲学がないのは、あたかも床の間に掛け物がないようなものであり、その国の品位が劣ることは免ない

哲学なき国民は何事をしても深い意味がなく、浅薄さを免れない。自分自身で造った哲学がなく、政治には主義がなく、政党の争いもその場だけで継続性がない、その原因は実にここにあるのだ。(『一年有半』)

『民約訳解』

『民約訳解』(1882年 明治15年)はルソーの『社会契約論』の主要な部分を中江兆民が漢訳したもの。そこに示された主権在民の原理や抵抗権の思想は、自由民権運動に新たな理論的基礎を与える役割をはたした。日本の知識人を中心に高い評価を受け、東洋のルソーと呼ばれるようになる。

『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』

『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』は(1887 明治20)は、民主主義者の洋学紳士、侵略主義者の豪傑君、現実主義者の南海先生の3人が、遅れて近代化の道を歩む小国日本をいかにして独立・発展させるかを討論という形式で記されている。中江兆民は、自由民権運動の実践運動には深入りせず、もっぱら思想的支柱であることを心がけていた。欧米の合理主義の風潮と日本の国粋主義の風潮が対立する中で、自己の路線を求める日本の知識人の苦悩が語られている。

『一年有半(いちねんゆうはん)』

『一年有半(いちねんゆうはん)』(1901 明治34)、食堂ガンとなり、余命1年半とされた中江兆民の遺著である。「日本に哲学なし」など、明治日本への様々な批判が書かれている。続編『続一年有半』とともに、当時30万部のベストセラーとなった。

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