レヴィナス Emmanuel Lévinas
レヴィナス(1906.1.12 – 1995.1225)はフランスの哲学者、倫理学者。主著は『全体と無限性』フッサールの現象学とハイデガーの存在論から学び、フランスに伝えた。ユダヤ人としてナチスドイツに強制収容所にいれられ、生き延びたものの、家族や知人はすべてうしなった。この過酷な体験はレヴィナスの倫理学に大きな影響を与えた。20世紀、戦争と暴力に支配された時代の中で、その超克の可能性を他者論における哲学的課題をもち、これは現象学に新たな展開を示した。
レヴィナスの略年
1906 カウナス(コヴノ)に生まれる。
1929 博士論文「ブッサール現象学における直観の理論」を提出する。
1930 パリに移住。ソルボンヌに通う。
1938 フッサールが死去する。
1940 ドイツ軍のパリ進攻中に捕虜となる。
1946 生還して「東方イスラエル師範学校」校長になる。
1947 『実存から実存者へ』出版する。
1961 『全体性と無限」で国家博士号取得する。
1967 パリ第十大学哲学科の教授に就任する。
1973 ソルボンヌのパリ第四大学哲学科の教授に就任する
1974 『存在の彼方へ』を出版する。
1976 ソルボンヌのパリ第四大学哲学科を退官する。
1995 死去。
レヴィナスの生涯
レヴィナスは1906年、ロシア領リトアニアのカウナスで、ユダヤ人の家庭に生まれた。父は書籍商である。フランスのストラスブール大学、ハイデガーのいるドイツのフライブルク大学で学んだ。やがて第二次世界大戦が勃発、ドイツのナチス軍がパリに侵攻すると、ドイツ軍の捕虜となる。レヴィナスの家族はナチスの強制収容所で虐殺された。戦後は、フランスの大学で哲学を講じ、ユダヤ教の教典であるタルムードの研究と講話を行った。1995年12月25日にフランス・パリで没した。レヴィナスは、20世紀という、2度の世界大戦と東西冷戦という戦争の世紀を生きた。戦争の舞台となった、ヨーロッパでユダヤ人の1人として過酷な状況を生きねばならなかった。
イリア ilya
イリアとは、レヴィナスの概念で、本来は「-がある」というフランス語の非人称の表現であるが、これを恐怖として体験される無意味な存在、不気味なただ「あること」とした。ユダヤ人であったレヴィナスはナチスドイツによって家族、親戚、知人すべてを失ったが、ただ世界は存在していた。すべてを失ったのにも関わったのになにかがそこにあり、その主語なき存在をイリアと名付けた。何かがあるのではなく、その何かもすべて消え去って、ただ無の闇と沈黙の中に「ある」ことのみがのしかかる。私という主体さえも消滅して、ただ非人称の「ある」だけが不気味な夜の闇のように広がる。私は主体性を失って、存在がひたすら重くのしかかる中で、金縛になり、出口のわからないまま、いつはてるとも知れない存在に引き渡される恐怖を味わう。レヴィナスによれば、人間が自己を中心に全体化した存在に固執することが、無意味で過剰な存在としてのイリアを生み出し、自己存在に固執している限り、そこからの脱出口はありえない。ただ孤独が存在しているのみである。その出口を与えるものは自己を無限に超越し、自己の内在世界を突破して迫りくる他者のく顔>との出会いである、とした。
全体性と無限
- 全体性:自己にとって同一化できるものすべて
- 無限:他者の他性
フッサールの他者とレヴィナスの他者
フッサールの現象学によれば、自己と他者とは同一の主観を有する理性的存在者であるとされ、他者の思考を理解し、その体験を追うことは可能であった。しかし、レヴィナスは自己と他者の同一性を否定した。自己にとってあらゆるものが自己意識に取り込めるものであるが、他者のみがそれが不可能である。他者は自己にとって超越的で「絶対的に他なる存在」である。
顔
顔とはレヴィナスの哲学の重要な概念であり、自己にとって絶対的に他なるものとして迫ってくる、他者の存在のことである。他者の顔は、通常使われているような対象を意味しない。また、自らの意識のなかにある他者のイメージを意味しない。他者の顔とは、自己との間に絶対的な差異を持つものであり、自己を無限に超越する他者の持つ他性をあらわす<顔>は自己と他者との接点であり、他者は<顔>をもって無言のメッセージを発するが、そのときは私は応答する「責任」がある。
<他者>が私に対置するのは、だから、より大きな力一計量可能で、したがって全体の一部をなすかのように現前するエネルギー一ではない。全体との関係において、〈他者〉の存在が超越していることそのものである。<他者>が対置するのはどのような意味でも最上級の権力ではなく、まさに<他者>の超越という無限なものである。この無限なものは殺人よりも強いのであって、<他者>の顔としてすでに私たちに抵抗している。この無限なものが<他者>の顔であり本源的な表出であって、「あなたは殺してはならない」という最初のことばなのである。無限なものは殺人に対する無限な抵抗によって権能を麻痺させる。この抵抗は堅固で乗り越えがたいものとして、他者の顔のうちで、無防備なその眼のまったき裸形のうちで煌めく。<超越的なもの>の絶対的な開在性である裸形のなかで煌めいている。そこにあるものは、きわめて大きな抵抗との関係ではなく、絶対的に<他なるもの>であるなにものかとの関係である。それはつまり、抵抗をもたないものの抵抗、倫理的な抵抗なのである。
(レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳)
汝殺すなかれ
貧困、暴力、死の恐怖におびえる他者の<顔>は、私の、自己の中の内在的世界を超えて迫ってくる。そのとき、私の中から「汝殺すなかれ」という倫理的な命令が下される。私は自己の内在的世界を無限に超越する他者を迎え入れ、他者の苦痛に責任を持つとき、無限へと開かれ、真に倫理的な主体となる。レヴィナスは、自己の外部から<顔>をもって、「汝殺すなかれ」という物理的抵抗における無抵抗、暴力を告発する無言の倫理的抵抗を行う。
耐え忍ばれた侮辱は、それが他人の顔を通して、私を見つめ、私を告発するとき、私への裁きとして生起する。耐え忍ばれた侮辱、異邦人・寡婦・孤児という存在こそが、<他者>の顔のあらわれだからである。『全体性と無限』
『全体性と無限』、『存在の彼方へ』
『全体性と無限』(1961)では、全体性に包括され得ぬものとして他者論を論じ、『存在の彼方へ』(1974)では、他者の無限としての他性を研究した。