ヘレニズム|ギリシアとオリエントが融合した新文化の興隆

ヘレニズム

ヘレニズムとは、紀元前4世紀後半から紀元前1世紀にかけて生まれた、ギリシア的な文化や思想を意味する。ブライズム(ユダヤ教やキリスト教の文化・思想)とともに、ヨーロッパ文化の根底にある二大潮流の一つをなす。歴史的には、アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア文化が地中海東岸の港市を中心とする西アジア一帯に流入し、オリエント文化と融合して形成された。アレクサンドロスの急逝後、ディアドコイ(後継者たち)が大王の広大な帝国領を分割統治し、各地の風土や文明との融合が急速に進行した。このギリシア世界とオリエント世界の交流により、多民族・多文化が融合し、各地の建築、美術、哲学、宗教。芸術、政治体制にいたるまで新しい伝統や価値観が確立されていった。多くのギリシア人が各都市に居住した。ポリスや民族の枠に捕らわれることを避け、世界市民主義(コスモポリタニズム)に根付く個人主義の性格を帯びていた。

ヘレニズム

ヘレニズムとは、ギリシア(ヘレネス)という言葉からつくられた近代の用語で、ギリシア風とかギリシア文化という意味で用いられる。ドイツの歴史家ドロイゼン(1808~84)が著作のなかで使用して一般に普及された。

ヘレニズム時代

ヘレニズム時代は、アレクサンドロスの東方遠征からローマによるプトレマイオス朝エジプトの滅亡までの約300年間をいう。ヘレニズム諸国がほとんどローマ支配下に入ったものの、ローマの文化だけでなく、キリスト教もギリシア文化をも主要な柱として受け継ぎ、現代のヨーロッパ文化につながっていく。

アレクサンドロス大王の征服

マケドニア王国の若き王アレクサンドロスは、父ピリッポス2世からギリシア本土の覇権を受け継いだのち、ペルシア帝国を相手に大規模な遠征を敢行した。その過程でシリア、エジプト、メソポタミア、さらにはインド北西部にまで進軍し、巨大な領域を一時的に統合することに成功する。征服地にギリシア式の都市を建設し、現地文化との融合を意図して混血的な行政や軍隊組織を整備したことがヘレニズム形成の出発点となった。オリエント土着の民族文化や社会の仕組みはヘレニズムやローマ文化と融合しながらも根強く生き残り、ローマ帝国が衰える後3~4世紀には東方文化の世界に復帰していった。

ディアドコイ戦争と王国の分立

アレクサンドロスの死後、遺領をめぐる後継者争い(ディアドコイ戦争)が勃発し、複数の王朝が小アジアやシリア、エジプト、マケドニアなどに台頭した。セレウコス朝やプトレマイオス朝などはそれぞれの支配地域で現地社会とギリシア文化を結びつける政策を推進する。このような政治情勢の中、ヘレニズムは単なる「ギリシア化」ではなく、新たな国家観と文化観を内包する現象として定着した。

王権と支配

古典ギリシアでは市民による自治を重視するポリスが主流だったが、ヘレニズム期になると広域を支配する王制が一般化した。プトレマイオス朝エジプトなどでは、ギリシア人王が在地の伝統的神々やファラオのイメージを受け継ぎ、宗教的威厳と現実的な官僚制度を組み合わせて領内を治めた。この多民族支配のあり方は、後のローマ帝国にも影響を与える統治モデルとなった。

神的権威

古代ギリシアの文化が流入したが、政治的には、ヘレニズム諸王国において、古代ギリシアで栄えた民主政ではなく、オリエント以来の専制王権を受け継ぎ、君主自らの神的権威を強調し、君主礼拝を国民に強制することが見られた。(参考:アテネの民主主義

ヘレニズム都市の特徴

征服地に創設された多くの都市は、ギリシア式の建築様式を持つアゴラ(広場)や劇場、競技場を備えると同時に、在地の宗教施設や行政機関も組み込む多層的な性格を帯びた。住民にはギリシア人だけでなく、エジプト人やシリア人など多民族が含まれ、言語や宗教が交錯するコスモポリス的環境が整えられた。こうした都市がヘレニズム文化を育む拠点となった。

エジプトのアレクサンドリア

代表的な例がエジプトのアレクサンドリアであり、図書館やムセイオン(学術研究所)の設立によってギリシア研究のみならず、エジプトやバビロニアの伝統知識が収集され、学問活動の中心地となった。これらの都市では劇場や競技場が設けられ、市民がギリシア流の演劇やスポーツを楽しむ一方、在地の文化や宗教行事とも相互に影響を与え合い、新たな様式や儀礼が生まれた。

ヘレニズム文化

ヘレニズム文化は独特の古代ギリシアとオリエント文化が融合し合い、独特の文化が生まれた。ポリスの衰退から世界市民というコスモポリタニズムの思想が生まれた。また国家や民族を超えた世界市民という概念は人々に個人主義傾向をもたらした。またムセイオンという研究施設は国家や富豪の支援により学問が発達し、自然科学、医学、建築、芸術などが発達した。

科学

ヘレニズム時代には、幾何学や天文学、医学などの学術分野が急速に発展した。アレクサンドリアは幾何学者エウクレイデス(ユークリッド)や天文学者アリスタルコス、エラトステネスなど多くの学者を輩出し、世界の輪郭を理論的に描き出す先駆的な研究が行われた。特に地球の大きさの推定や天体運行の仮説構築は、後世の科学観に大きな影響を与えたとされる。また、医師として活躍したヘロフィロスやエラシストラトスによる人体解剖の知識も飛躍的に拡充し、医学を体系的に整理する動きが活発化した。

学問と芸術

エジプトのアレクサンドリアは、大図書館を中心とする学問都市として栄え、アルキメデスやエウクレイデスら著名な学者が多数の発見や理論を打ち立てることになった。芸術面では古典期ギリシアの均整美から一歩進み、感情や動きを大胆に表現する動的な作風が好まれるようになった。

ヘレニズム文化の像

ヘレニズム文化の像

主な美術品
  • ミロのヴィーナス
  • サモトラケのニケ
  • 瀕死のガリア人

コイネー

コイネーは、ヘレニズム世界の共通語で、アッティカ方言をもとに、各地の方言がまじってできたギリシアの共通語である。

国際的な文化の広がり

ギリシア人・マケドニア人は東方世界では、ごく少数に過ぎなかった。アレクサンドロス王は自らの古代ギリシア文明を非常に高く評価し、アレクサンドリアなどのギリシア都市を拠点に経済的活動やギリシア文化の伝播を推し進めた。その結果、ヘレニズム文化はヨーロッパにはローマ人やアラビア人を通じてラテン文化に発展していく。アラビア文化にはヘレニズム文化の影響下のなかにイスラーム帝国が生まれた。インド、中国、朝鮮、日本には特に芸術に影響を与えた。

哲学と宗教の広がり

この時期にはストア派やエピクロス派といった新しい哲学潮流が発展し、個人の幸福や倫理を探求する思想が広範に普及した。アテナイにおける伝統的なアカデメイアやリュケイオンの流れを継承しつつも、人間の内面的な平安や徳を重視する形で変容していったのである。一方で、古代オリエントの宗教や秘儀も流入し、ヘレニズム社会の住民は多様な信仰を自由に受容する環境を手に入れた。こうした宗教的寛容性は、のちにキリスト教など新しい宗教運動が生まれる下地にもなったとされる。

コスモポリタニズム

コスモポリタニズムは国家や民族を超え、世界に生ける市民として生き、個人主義的な思想である。アレクサンドロスによる大帝国の野望はコスモポリタニズムという思想が生まれていった。国家主義や選民主義などを否定するため、キリスト教イスラム教が世界宗教へと育ってゆく思想的基盤となった。

ムセイオン

ムセイオンという研究施設が学問の中心となった。国家や富裕層の資金的援助により学者が集められ、多くの文献が集められ、様々な自然科学が発展することができた。

宗教・思想の融合

ヘレニズム時代には、ギリシア神話や哲学にオリエント的神秘思想が組み合わさり、様々な宗教運動や密儀宗教が活性化した。エジプト神イシスを信仰するイシス教や、バビロニアやフェニキアの伝統を取り込む形で生まれた新宗教が、都市住民の心を惹きつけるようになる。こうした多面的信仰が、東西を結ぶ精神文化の刺激剤となった。

歴史的意義

アレクサンドロスの後継者たちが築いた広大な版図は、やがて共和政ローマの台頭とともに徐々に征服され、紀元前1世紀ごろまでにはローマの一部や属州へと取り込まれていった。しかしヘレニズムがもたらした東西文化の融合と学問の興隆は、その後のローマ世界や中世、さらには近代の西洋思想へと脈々と受け継がれることとなる。言語・哲学・宗教・芸術の交流によるダイナミズムは、今日でも「グローバル化」という言葉を用いて理解される文化現象を捉える上で、貴重な歴史的視点を与えてくれている。

  • ポリビオス『歴史』:ヘレニズム世界の軍事・政治動向を分析
  • ディオドロス『歴史叢書』:広範な時代を扱い、ディアドコイ戦争以降にも言及
  • プルタルコス『対比列伝』:王や将軍の人物像を比較的詳細に描写
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