ソクラテスの生涯
ソクラテスは、アテネの近郊のアロペケ区で生まれ、石工で彫刻家のソプロニコス(父)と助産婦であるパイナレテ(母)の間で生まれる。ソクラテスの対話法が助産術に例えられたのは母親が助産婦だったことからだと類推できる。ペロポネス戦争に従軍をした。従軍後は堕落するポリスを嘆き、またデルフォイの信託から政治活動や教育、問答の活動を始めるが、多くの政敵を作り出したため、政治的陰謀から死刑に追い込まれ、最後は毒杯を飲んで死んだ。
ソクラテスの生涯
前470 アテネに生まれる。
前429 デルフォイの神殿で神託を受ける。
前419 結婚。
前407 プラトンと出会う。
前404 ペロポネソス戦争が終 結し、アテネの敗北が 決定する。
前399 メレトスという若者に告発され、裁判にかけられる。同年、刑死する。
若きソクラテス
自然哲学や数学に関心を持ち、アナクサゴラスの思想を学ぶが、評価は低く、精神性に欠け、水や空気などの無意味なものによって物事の原因を説明するその思想に失望した。ここから自然哲学から離れ、魂(プシュケー)の配慮というテーマに関心をもつ。
『パイドン』プラトンからの引用
私の期待があれほど高かっただけに希望から引き離されるのもなんと早かったことか。私が読み進めるうちに私が読んでいる哲学者がヌースをまったく捨て去り、他のいかなる原理も訴えること無く、空気やエーテルや水や他の多くの突飛なものを持ち出しているのがわかったからだ。『パイドン』プラトン
後期ソクラテス
三度にわたるペロポネス戦争に従軍をしたが、敗北する。敗北した後、アテネの民主政治が衆愚政治へと堕落し、市民が金銭や権力を求めてソフィストの唱える個人主義に走る中でソクラテスはポリスの市民としての正しい生き方を訴える。
デルフォイの神託
ソクラテスは、40歳の頃、友人のカイレポン神殿からもたらした「ソクラテスよりも賢い者はいない」という神託を得た。この神託をきっかけにソクラテスの哲学の起源が始まる。
当時のギリシア人のデルフォイの神託
当時ギリシア全土でデルフォイの神殿の信託に対する信仰があった。デルフォイの神殿は予言の神であるアポロン神を祀った神殿であり、ギリシア人の入植につれて大きな権威を持った。人々はなにかあると巫女にその信託を促し、時には戦争の是非までも問うたという。当時の演劇や芸術においてもデルフォイ神殿は登場する。ソフォクレスが描いた『オイディプス王』では、デルフォイの神託が重要な予言として扱われており、神から不吉な予言を受け取った王は、わが子オイディプスを捨てる。羊飼いによって育てられ成人となったオイディプスは、運命によって実の父親を殺し、母親を妻とすることになり、デルフォイの信託通り悲劇的な末路となる。人間は神に抗うことはできなかった。
政治的対立
紀元前406年、職務怠慢のために告発される可能性にあった八人の司令官をともに裁判にかけよという要求に対し、アテナイの法律に反することを理由に拒否した。三年後、ソクラテスは政権を強奪した三十人委員会と呼ばれる集団と共謀することを拒み、著名な市民に対する迫害行為を行わなかった。三十人委員会は失脚するが、後に再び政権を握り、ソクラテス裁判につながる。
ソクラテスの訴状:『ソクラテスの弁明』プラトン
その宣誓口術書となるものを別に取り上げてみましょう。それはだいたいこんなふうなものなのです。ソクラテスは犯罪人である。青年を腐敗させ、国家の認める神々を認めずに、別の新しい鬼神(ダイモーン)のたぐいを祭るがゆえにという、こういうのが、その訴えなのです。
ソクラテスの死
紀元前400年ソクラテスはアテネの有力者と問答を重ねるが、言論的に敵対の姿勢に立つ。しかし、そのことによって政治的に反感を買ってしまい、危険視された。結果、「国家の神々を信じず、見知らぬ宗教的実践を持ち込み、青少年を惑わした」という理由で訴えられ、裁判で死刑を受けた。外国への亡命をすすめた弟子もいたが、不当な判決であれど、悪法もまた法であり、ポリスの市民の一人として国法を受け入れるべきだ、として自ら毒杯を飲み、70歳で刑死した。最後の一日、ケベスとシミアスという二人の友人と魂の不死について論じて過ごし、毒ニンジンの毒杯を飲み、彼の一生は閉じた。
ソクラテスの伝承
ソクラテスはみずから著作を残しておらず、弟子によって言い伝えられた。その思想はプラトンの対話篇やクセノフォンの著作によって知ることができる。