カントの認識論
カントの認識論は大陸にみられる合理論とイギリスにみられる経験論を否定したことにその特徴がみられる。合理論は、われわれの認識の可能性やその本質、限界等に関する省察を欠き、ひたすら認識能力を信頼して、知識の無限の妥当性を信じていたところから、独断であるとした。また一方、経験論は、経験や感覚を主とするところから、知識の客観性を否定することなり、普遍的認識論を疑うという意味で、懐疑論と批判した。カントは、知識の材料は経験から来るが、その形式は理性自身の作用であることを得た。すなわち、知識の形式は、われわれの実際上の経験に先立って先験的に(transzendental)あり、経験の基礎となるものである。カントにおいて、経験に先立つことをアプリオリといい、経験の後のことをアポステリオリという。
『純粋理性批判』
第一批判のテーマ(純粋理性批判)
数学や自然科学の普遍性と必然性を主張するためには、経験に先立つもの、経験の基礎となるもの、アプリオリなものが必要である。無制約的な必然性と確実な普遍性という二つを持ったものが、アプリオリと呼ばれる。そして、経験から独立したアプリオリなものを認識する能力、理性を吟味するのが、『純粋理性批判』である。
コペルニクス的転回
従来、一切の認識は対象に依準せねばならないとされた。まず先に物があって、我々の認識はそれに従う。この立場は経験論であり、これでは普遍性は得られない。そこでカントは、認識と対象の関係を転倒させた。(コペルニクス的転回)逆に、対象が我々の認識に依準せねばならないとし、アプリオリは対象にではなく、われわれの認識の中に求めなければならないと考えたのである。知識の材料とその客観性は経験からは派生せるわけではない。知識の普遍性と必然性とは、先験的に経験とは独立の根幹から出てくる。
空間と時間について
カントは、先験的な(アプリオリな)認識として、時間と空間を上げる。時間と空間は、経験から抽象して得られたものではなく、経験に先立って存在するもであり、対象を直観する際に付随する形式・法則であるといえる。つまり、時間と空間は事物そのものに独立して存在するものではない。我々が物を知覚するとき、時間と空間が絶えずともなう、それは物自体にあるのではなく、主観の形式として我々の中に備わっているとした。なお、時間は内感の形式であり、空間は外感の形式である。そして、物それ自体(物自体)そのものは認識することはできない、とする。
空間について:形而上学的究明
(a)空間は、外的経験から抽象された経験的概念ではない。なぜなら、すベての外的経験はすでに空間の表象を前提することなくしては不可能だからである。
(b)空間はあらゆる外的直観の根底に存する必然的先験的表象である。なぜなら,我々は、そのうちにいかなる対象も見出されない空間を思惟することはできるが、しかし空間が全く存在しないという表象を作ることはできないからである。
(C)空間は物の関係の既念ではなく純粋直観である。なぜなら、概念とは多くの種からその共通的徴表を抽象して構成された類であるから、概念にはその構成要素として多くの種が先行しなければならないが、空間の場合にはこのことはあてはまらない。空間の表象は本来は一つであり、多くの空間という場合も実は同一の空間の部分を意味するにすぎないからである。
(d)空間は無限な量として表象される。それは無限な部分を自己のうちに含むものである。これに対して概念はこういうものではなく一定数の種を自己の下に含むものである。
※時間についてはほぼ同じ証明があるが省略する
物自体
我々の認識は、アプリオリな形式としての時間と空間を通して物を知覚するが、物自体としての対象をわれわれは決して直観することはできない。だからといって認識を仮象とするわけではない。時間と空間が我々の感性の先験的な形式で、その形式を通して知覚する限りにおいて、現実的に存在するものとして認められることができる。カントはこのことを、空間および時間は先験的観念性を持つと同時に経験的実在を持つとした。
悟性的知識の先験的要素(カテゴリー)-概念の形式
我々は、時間と空間を形式として、直観によって対象の直観が与えられるが、それだけではまだ認識は成立しない。認識が成立するためには、このような感覚的経験を材料にして、思惟されることが必要となる。感性において与えられた多様な表象を、概念へと総合しなければならない。さて、直感は多様で断片的であり、概念は統一的、同一、普遍的である。多様な直感を、構想力により悟性概念へと適用される。この思惟の働きは判断であり、判断の種類があるだけの悟性(カテゴリー)が必要である。
カテゴリー
物はこれらのカテゴリーのいづれかによって初めて物として理解される。言い換えれば、対象を統一化し、感覚を統合し、それに独立な物としての姿を与えるのが、カテゴリーの役目である。したがって、カテゴリーは対象世界の成立への制約である。そして、このカテゴリーは本来の、ア・プリオリなものであるから、普遍性と必然性を持つのであるが、このようなカテゴリー自身の持つ普遍性と必然性が基礎になって、あらゆる普遍性と必然性が得られることになる。
対象は主観の持つカテゴリーを通して初めて主観になる。
認識は実質(感覚、経験)と形式(カテゴリー)からなり、両方を必要とする。「内容なき思惟は空虚であり、概念無き直感は盲目である」この直観の形式やカテゴリーは主観のうちにあるが、この場合の主観は個人的経験の主観ではなく、超個人的主観である。だから対象世界を算出するものは、超個人主観であって、時空の形式を与え、制約とはなるが、内容そのもの(物自体)を産出するものではないことに注意しなければならない。
『純粋理性批判』カント
すべての対象のアプリオリな認識のためにまえにまず与えられなければならないものは、純粋直観の多様である。第二に必要とされるものは、構想力によるこの多様の総合である。しかしこれだけではまだ認識はもたらされない。この純粋総合に統一を与える概念が、ある対象の認識のための第三の必要条件をなしており、この概念は悟性に基づくものである。
形而上学的批判
直観の形式は先験的であり、論理上、経験に先立つ。そして、経験に依存しないが故に普遍妥当である。時空ならびにカテゴリーという認識の形式が及ぶ限りにおいて、我々の知識は必然的である。つまり、たとえ物自体をありのまま認識できなくとも現象界(時空・カテゴリーによって所産された世界)に関するかぎり、知識は必然性を持ち、数学や自然科学は普遍と必然性を持つ。しかし、逆に言えば、カテゴリーの届かない世界について、なにも言えないことがいえる。
イデー
我々の認識が直観の形式やカテゴリーの認識の形式に依存し、物自体を認識することができないのであれば、これまで考えられていた形而上学は誤りである、と結論づけられる。
しかし、カントはその上で、形而上学を人間の認識の本性から生じた不可 避的な現象であるとし、理性は悟性による認識に統一を与えようとするものであるが,こうして理性は判断の一般的制約を求め,さらにその制約の制約を求めるという風に、どこまでも特殊に対する一般を求めてついに絶対に無制約的なものに到達しようとすることを認めた。
カントは(そうした認識にみられない)形而上学の対象を理念(イデー)と名づけた。理念(イデー)とは、心(Seele)、世界(Welt)、神(Gott)である。
心は心的現象の絶対的主体としてのイデーであり、われわれの内的生活の本体である。心は思惟する主観にかんして考えられた無制約者である。
世界は外的現象の世界であり、世界と言うイデーによって、われわれの外的認識は究極に達する。客観的な現象に関して考えられた無制約者で、合理的宇宙論において考えられた世界を指す。
最後に神は万有の絶対的本源である。神は主観・客観を含めたすべての対象一般について考えられた無制約者であり、合理的神学において考えられた神のイデーである。それぞれに究理的宇宙論、究理的神学が成り立つが、これは学としては成立しない。