イマヌエル・カント Immanuel Kant
イマヌエル・カントは、ドイツの哲学者であり、理性に信頼をく啓蒙思想の完成者であるといえる。主著『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』、『永遠平和のために』、『単なる理性の限界内における宗教』がある。理性能力の権限とそれがおよぶ範囲を吟味・検討する批判哲学を確立し、人間の認識能力の限界を批判的に検討した。カントはイギリスで主流だった経験論と大陸で主流だった合理論を総合し、認識は経験によって与えられた素材は、われわれ人間の側に備わっている感性や悟性の先験的な形式によって統一され、対象が構成される。われわれの外に独立した対象があるのではなく、われわれの先験的な能力が対象を作り上げ、認識を成立させるとした。(カントの認識論)道徳においては、自然の経験的世界は、原因と結果が結びつく因果律に規定された必然的な世界であるが、善意志に基づく道徳が可能であるためには、行為の自由が条件になる。カントは、自由な道徳的主体としての人格は必然的な因果律の支配する現象界をこえて、自由な英知界に属すると説いた。人間は、感性的存在としては必然的な自然界に屈するが、道徳法則に従う自由な主体としては道徳的な英知界に屈する。「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」(カントの倫理)純粋理性と純粋悟性の一元化はいかにして可能か。(カントの判断力批判)(カントの美学)
年表
1724年 ドイツで生まれる。
1740年 ケーニヒスベルク大学に入学
1746年 家庭教師生活
1770年 ケーニヒスベルク大学教授になる。
1781年 『純粋理性批判』
1787年 ベルリン王立科学学士院会員となる。
1783年 『学問として現れうるであろうすべての将来の形而上学へのプロレゴーメナ[序説]』
1785年 『道徳形而上学原論』
1788年 『実践理性批判』
1790年 『判断力批判』
1793年 『単なる理性の限界内における宗教』
1795年 『永遠平和のために』
1804年 死去
カントの生涯
1720年、東プロシアの港町ケーニヒスベルク(後のソビエト連邦のカリーニングラード)に生まれる。父親は馬具匠であった。両親はルター派の経験主義の信者で、この両親から幼いころから道徳的正しさに基づいた教育方針だった。母親はカントが13歳の時に、父親は22歳の時に亡くなった。高校を卒業後、苦学をしてケーニヒスベルク大学を卒業する。大学卒業後は、プロシア人の家庭の家庭教師をしながら研究を続ける。1755年、ケーニヒスベルク大学で修士をとり、同大学で講義を続け、1770年、論理学と形而上学の正教授となる。1781年には『純粋理性批判』、1788年『実践理性批判』、1790年『判断力批判』を発表する。1793年の『単なる理性の限界内における宗教』の出版にさいしてフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世によって問責され、以降、神学的著作を出さないよう誓約書を書かされた。しかし、以降も執筆活動を続けた。晩年、カントの規則正しく几帳面な生活はのちの評判となっている。ケーニヒスベルクをほとんど離れることなく、80歳でこの世を去った。
カントの認識論
カントの哲学は、当時支配的であった、ヒュームやロックを代表とするイギリスの経験論(empiricism)とデカルト、スピノザ、ライプニッツに代表されるヨーロッパ大陸の合理論(rationalism)の2つの流れの中で、一種の総決算であり、総合したことにその特徴がみられる。全く相反する二つの立場に対してそれぞれの長所と短所を認めて両者を総合し、新しい哲学的立場を打ち立てた。『純粋理性批判』の中で特徴づけられる経験的実在論は、イギリスの経験論の流れの中にあり、超越論的観念論は、ヨーロッパ大陸の合理論の流れのなかで生まれたものである。人間的認識、経験的認識は、直観の材料を感覚器官を通じて後天的に受け入れる。そしてその際、時間・空間の直観形式によっている。感覚による経験的直観は空間の形式に従い、これをさらに内官において時間の形式によって整える。このように内面化された認識材料は、人間の主観に先験的に(経験に先立って)備わっている思考形式であるカテゴリーによって能動的・自発的に加工される、とした。こうして受動的な直観と能動的な思惟の合体により認識は成立する。(カントの認識論)
批判哲学
カントの哲学は批判哲学と言われる。従来の合理論的哲学による独断論的形而上学が、ヒュームの分析によって完全に否定されたのであるが、しかし、自然科学が絶対的な確実性があると考えていたカントにとって、そのヒュームの懐疑論的帰結もそのまま受け入れることができなかった。とはいえ、ヒュームの批判の通り、懐疑論に行き着くのであれば、ヒュームの立場そのものを再検討する必要があった。そうして、人間の認識能力である理性そのものをまず考察しなければならない。独断論と懐疑論が、それぞれ誤った道に迷い込んだのは、両者が、“人間の認識そのもの”に考察の目を向けず、あるいは理性の万能を独断的に信じて、あるいは単に認識がその起源を経験に有するという理由で、その妥当性を疑ったために外ならない。したがって、真に正しい道を進むためには、そもそもの理性に対し批判の目を傾けなければならない。ここらカントの哲学的立場を批判哲学と呼ばれるようになる。
カントの倫理
カントは、理論理性の領域では積極的な解決を得られなかった諸問題(神の存在、霊魂の不滅、人間の自由)を実践理性の領域においては一種の道徳的信仰として解決を与える。また、倫理について厳格主義といわれるように、厳しい倫理規定を守ることを求められる。我々人間の人格にむかって自由の領域が恣意的にならず、感性による傾向性(自己愛に基づく癖)に屈しないように厳しく道徳律の法則を定立する。
(カントの倫理学)
カントの美学
カントは、美的判断力批判として、美を批判的に吟味し哲学一般の体系のなかで 美学に独自の基礎づけを行い、その独自の原理、法則をあきらかにした。カントの美は、鑑賞について、認識論的な普遍性について、善意志のように有目的行為とも異なる。構想力と悟性との自由な遊動による美的判断の特性があげられる。無関心性、概念なき普遍妥当性、目的無き合目的性、概念無き必然性である。このような形式に判断根拠をもつゆえに、カントの美学は、形式美学とされる。
(カントの美学)
正しい生活
毎日の生活は、起床から就寝まで規則正しい日課が決められ、午後3時半に散歩する力ントの姿をみて、人びとは時計を合わせた。昼食に友人や学生を招いて談話を楽しむ社交的な面も持っていた。啓蒙思想家のルソーが自身の教育論について綴った『エミール』を読んで、日課の散歩を中止したことがある。カントは、ルソーから「人間を敬虔することを学んだ」と語った
影響
ニュートンの物理学とライプニッツやヴォルフの合理論の影響を受けた。自然の因果律を人問の想像力の習慣にすぎないと主張するヒュームの懐疑論によって「独断のまどろみ」を破られ、認識の基礎づけを考え始めた。