高麗
高麗は918年に太祖王建が建て、936年に後百済を制して朝鮮半島を再統一した王朝である。都は開城に置かれ、仏教を国家的に保護しつつ、中国の制度を参照した科挙や官僚制を整えた。対外的には宋との通交と貿易を進める一方、北方の契丹(遼)・のちの女真(金)やモンゴル帝国と対峙・妥協を重ねた。文化面では高麗青磁や高麗版大蔵経(八万大蔵経)に代表される高度な工芸・印刷文化を残し、朝鮮中世史の中核期を画した。国号は後に欧語で“Korea”の語源となり、王朝は1392年の李成桂の即位で終焉し、李氏朝鮮へと継承された。
成立と再統一
新羅末の内乱と後三国時代において、王建は松嶽(のちの開城)を根拠に勢力を拡大し、泰封・後百済・新羅が鼎立する情勢を巧みに調停した。935年に新羅が服属し、936年の公山城の戦いで後百済を屈服させて半島をほぼ統一した。再統一の正統性を強めるため、高麗は古代の高句麗の継承を標榜し、北進志向を象徴的に掲げた。
政治体制と官僚制
高麗は唐・宋を範とする三省六部制と科挙を導入し、958年の光宗期に文官登用を本格化させた。王権は貴族層との均衡に配慮しつつも、軍事・財政・司法を中央に集権化する方向で制度を整備した。地方には州・県が置かれ、監察・戸籍・租税の枠組みが整えられたが、荘園的領域や門閥貴族の勢力が強く、政治はしばしば貴族間の合従連衡に左右された。
対外関係と軍事
外交は現実主義であった。南では宋との冊封・通交と海上交易を維持し、北では契丹と激しく戦ったのちに国境と秩序を調整した。12世紀に女真が勃興すると、女真(金)との関係再編を迫られ、13世紀にはモンゴル帝国の侵攻が始まる。江華島遷都で抗戦を続けたが、やがて元の宗属下に入り、王室は元公主との婚姻を通じて体制の延命を図った。
経済と社会
経済の基盤は農業であり、治水・灌漑の整備により生産が維持された。租税は田制を基礎に賦課され、地方有力層は荘園的所領を拡張した。都の開城は国際商業都市として発展し、海運・手工業・遠隔地交易に関わる市舶司的機能を担った。商人・工人・僧侶・軍人・農民が複雑な身分秩序を形成し、国家儀礼と仏教的慈善が都市社会を支えた。
宗教と文化
高麗は仏教を厚く保護し、禅宗と教宗の諸宗が並立した。モンゴルとの戦乱期に国家安穏を祈って再彫された高麗版大蔵経(八万大蔵経)は、精緻な彫技と校勘で知られる。印刷術は木版を超え、14世紀には金属活字による仏典『直指』が刊行され、出版文化の広がりを示した。美術では高麗青磁が最盛を迎え、象嵌技法など独自の審美が醸成された。儒教は学問・官僚登用の理念として深まり、のちの朱子学普及の前提をなした。
武臣政権と元の影響
12世紀後半、軍人層の不満が爆発して1170年に武臣政変が起こり、崔氏らが実権を握った。専制的統治と財政窮乏は社会不安を拡大させ、蒙古来寇で構造的危機が露呈する。江華島への遷都は一定の防衛効果をもたらしたが、長期戦は国力を消耗させ、元の影響下で王権は冊封秩序に組み込まれた。それでも王朝は制度の修補と文化の継承に努めた。
終焉と体制転換
14世紀後半、元の衰退と明の台頭の狭間で権力は流動化し、倭寇の襲来は沿岸社会を疲弊させた。改革派と保守派が対立するなかで李成桂が台頭し、威化島回軍を経て1392年に即位して朝鮮王朝を創始した。高麗の制度・文化は新王朝に継承されつつも、朱子学的秩序をなお一層強める方向へ再編された。
年表(要点)
- 918年:太祖王建が建国、開城を中心に勢力を拡大
- 936年:後百済を破り半島再統一
- 958年:光宗期に科挙を本格導入
- 10~11世紀:遼(契丹)との抗争と和約
- 1170年:武臣政変、崔氏政権が成立
- 1231~1259年:蒙古来寇、江華島遷都・講和
- 1270~1273年:三別抄の抗蒙蜂起鎮圧
- 1377年:金属活字『直指』刊行
- 1392年:李成桂が即位し李氏朝鮮成立
地理・対外ネットワーク
都の開城は黄海道に位置し、半島西岸の海路から中国華北・華中と連絡した。北方国境地帯では鴨緑江・豆満江流域の防衛と交易管理が重視され、渤海遺民の吸収や国境市も形成された。東アジアの政権交代、とりわけ唐の崩壊後に台頭した宋、北方の女真、ついでモンゴル帝国と元の拡大は、高麗の外交・軍事・文化に持続的な影響を与えた。