閔妃暗殺事件
閔妃暗殺事件は、1895年10月に朝鮮王宮で行われた王妃閔氏(明成皇后)の殺害事件であり、日本公使館員や日本人浪人、親日的な朝鮮軍人らが関与したクーデター型のテロ事件である。日本の勢力拡大とロシアなど列強の進出が交錯するなかで発生し、朝鮮王朝政治を大きく動揺させただけでなく、のちの日本による韓国支配の進展と日韓関係悪化の重要な契機となった出来事である。
事件発生の国際・国内背景
19世紀後半の朝鮮は、開国をめぐり列強の圧力にさらされていた。近隣では日本が近代国家建設を進め、中国では列強の進出が強まり、やがて日清戦争が勃発する。清の宗主権が揺らぐ中で、王妃閔氏は朝鮮王朝の自主性を守るため、時に清、時にロシアと結び、日本の影響力を抑えようとする綱渡りの外交を行った。このような路線は、日本国内の軍部強硬派や在朝日本人の強い反発を招き、王妃を排除すべき「親露派の中心」とみなす風潮を生み出した。
王妃閔氏の政治的役割
王妃閔氏は高宗の正妃として宮廷内外の人事・外交に大きな影響力を持ち、単なる王の配偶者を超えた政治指導者として振る舞った。彼女は日本主導の急進的な改革に慎重であり、日本が主導した甲午改革路線に全面的には賛同しなかった。また、日清戦争後に日本の干渉が強まると、ロシア公使館との接近を進め、日本の軍事的圧力を牽制しようとした。このような動きが、日本側からは朝鮮支配構想を妨げる存在として危険視され、閔妃暗殺事件を準備する政治的土壌となった。
1895年10月8日の襲撃
1895年10月8日未明、日本公使三浦梧楼のもとに集結した日本人浪人や警護兵、さらに親日派の朝鮮軍人らが王宮景福宮を急襲した。彼らは王妃の居所である建春宮付近に乱入し、王妃の侍女らを暴行しつつ捜索を行い、ついに王妃閔氏とみられる女性を捕えて斬殺したうえ、遺体を焼却したと伝えられる。襲撃は短時間で終わり、同日中に日本寄りの勢力が政権を掌握したが、その過程で王妃が惨殺されたことは朝鮮社会に深刻な衝撃と恐怖を与えた。
日本公使館と在朝日本人の関与
当時の在朝日本公使館は、王妃閔氏を排除すべき「親露派の首魁」とみなし、彼女の影響力を除くことで日本に好都合な政権を樹立できると考えていたとされる。三浦梧楼は公的には直接の命令関与を否定したが、公使館員や浪人を通じた計画・指揮があったことは多くの史料から示唆されている。日本の近代外交史・軍事史においても、閔妃暗殺事件は政府・公使館・非正規勢力が複雑に絡み合った暗部として位置づけられている。
朝鮮社会と列強の反応
閔妃暗殺事件は、朝鮮社会に強い対日感情の悪化をもたらした。王妃殺害という前例のない暴挙により、日本は「王室をも侵す危険な国家」として認識され、多くの儒生・民衆の間で義兵闘争や排日運動の気運が高まった。一方、国際社会でも事件は批判の的となり、ロシアや欧米列強は日本の行動を問題視した。これと同時期、中国では列強の進出が激化し、やがて義和団事件と北清事変が起こり、その結果として北京議定書が結ばれるなど、東アジア全体が帝国主義的競合のただ中にあった。
日本国内での裁判と処理
事件後、日本政府は国際的非難を和らげるため、三浦梧楼ら関係者を一時帰国させ、広島で裁判にかけた。しかし、証拠不十分などを理由に全員無罪となり、実質的な処罰は行われなかった。この判決は、国外には日本が自国の不正を正す意思を欠くものと受け取られ、朝鮮や列強の対日不信をさらに深める要因となった。国内でも、この処理は近代法治国家を標榜する日本の姿勢として評価が分かれ、後世に至るまで議論の対象となっている。
その後の朝鮮王朝と日本の支配強化
閔妃暗殺事件後、高宗は日本の圧力を恐れ、やがてロシア公使館に逃れて保護を求める露館播遷を行った。これにより一時的にロシアの影響力が強まるが、その対立は日露戦争へとつながり、戦後にはポーツマス条約や桂=タフト協定、さらには日露協約を通じて日本の韓国支配は国際的に承認されていく。結果として韓国は保護国化を経て、最終的に日本の韓国併合へと至るが、その長い過程の起点として王妃殺害の衝撃は常に記憶され続けた。
事件の歴史的意義
閔妃暗殺事件は、一国の王妃が外国勢力と結びついた武装勢力によって王宮内で殺害されるという、極めて異例の事件であると同時に、日本の帝国主義的膨張が露骨な形で現れた象徴的出来事である。事件は朝鮮王朝の主権と王室権威を深く傷つけ、のちの植民地支配と対日感情の悪化に決定的な影を落とした。その記憶は現在にいたるまで日韓の歴史認識問題に関わる重要な論点となっている。