日露協約
日露協約とは、日露戦争後に日本とロシア帝国のあいだで結ばれた一連の秘密協約である。1907年から1912年にかけて締結された3本の協約を総称し、朝鮮・満州・蒙古など東アジア大陸部における両国の勢力範囲を相互に確認し調整したものである。これにより日本は朝鮮支配と南満州での権益拡大を、ロシアは北満州や外蒙古での優越的地位を国際的に追認させ、中国主権を名目的に保ちながら実質的な「勢力圏分割」を進めた点に特色がある。
日露協約成立の国際的背景
日露協約の成立背景には、列強による清国分割の進展があった。19世紀末の義和団事件と北清事変ののち、列強は辛丑和約や北京議定書によって清国から巨額賠償と出兵権を獲得し、各地に租借地と鉄道利権を広げていった。ロシアは東清鉄道を軸に満州へ軍を進め、日本も朝鮮半島と遼東半島への進出を図り、両国の対立は日露戦争へと発展した。戦後のポーツマス条約で日本は南満州鉄道や旅順・大連租借権を得たが、満州全域の支配が確立したわけではなく、日露双方が利害を調整しないかぎり再対立の危険が残されていたのである。
第1次日露協約(1907年)の内容
こうした状況のもとで結ばれたのが1907年の第1次日露協約である。この協約は朝鮮と満州における両国の「特殊権益」を相互に承認し、勢力圏を区分することを目的としていた。日本は朝鮮における保護権と南満州での鉄道・鉱山利権を主張し、ロシアは北満州における鉄道と軍事・経済上の優越的地位を認めさせた。協約は秘密裏に締結されたが、両国ともに清国の主権を形式的には尊重する姿勢を示しつつ、その内実では中国東北部を分割管理する枠組みを固めたといえる。
- 朝鮮について日本の支配的地位をロシアが承認
- 南満州における日本の鉄道・沿線権益を確認
- 北満州におけるロシアの優越的地位を日本が容認
韓国併合への布石
第1次日露協約でロシアが日本の朝鮮支配を認めたことは、1907年の第三次日韓協約、さらに1910年の韓国併合へとつながる重要な前提であった。日本は桂=タフト協定でアメリカに朝鮮での優越権を認めさせ、英国との日英同盟も維持しており、列強間の承認を積み上げることで朝鮮半島支配の国際的な正当性を固めていったのである。
第2次・第3次日露協約と満蒙・蒙古問題
1910年の第2次日露協約は満州における鉄道と商業活動の分野で、両国の権益をより具体的に調整した。ここでは南満州鉄道の利用や沿線の警備、開港場での通商上の取り決めが整理され、日本の南満州鉄道経営とロシアの東清鉄道経営が共存できるよう枠組みが整えられた。1912年の第3次日露協約では、外蒙古と内蒙古・満州における勢力圏をより明確に線引きし、ロシアは外蒙古での優越的地位を、日本は満州南部と遼東半島での支配を互いに是認した。
中国主権と「勢力圏」構想
これらの協約では、いずれも清朝の主権を「尊重する」とうたいつつ、その実、両国が軍事と経済の支配権を分割する構図が採用された。列強は清国の形式的独立を維持しながら、租借地・鉄道付属地・関税権などを通じて実質的な統治権を握るという、半植民地的な支配の仕組みを発展させていったのである。
日露協約と中国分割・列強協調
日露協約は、日本とロシアが正面から武力で争うのではなく、外交交渉によって利害調整を図る「列強協調」の一例と位置づけられる。英国とロシアが中東で勢力圏を定めた英露協商と同様に、日露協約もまた清国領内における勢力圏を相互承認するものであった。この過程で日本は関東州の租借地支配と南満州での利権を強化し、ロシアは北満州と外蒙古での影響力を維持することができた。
日本の大陸政策と日露協約の歴史的意義
- 日露協約は、日本の大陸政策を軍事的対立から外交的調整へと移行させる契機となった。
- 中国主権を名目上認めつつ、その内部で権益を分割する列強のやり方を典型的に示した。
- 朝鮮併合と南満州経営を国際的に承認させる枠組みを提供し、日本の帝国主義的膨張を制度化した。
- ロシアにとっても極東での対日妥協により、欧州や中東に外交資源を振り向けることが可能になった。
以上のように日露協約は、単に日露両国の二国間関係にとどまらず、清国の半植民地化と東アジア国際秩序の再編に大きな影響を及ぼした。義和団事件後の危機を経て、列強は武力衝突よりも協調的な勢力圏調整へと向かい、その中で日本は大陸進出を既成事実化していったのである。