義和団事件|清末の反帝国主義蜂起

義和団事件

義和団事件は、1899年から1901年にかけて中国北部で起こった排外・反キリスト教運動であり、清朝末期の危機と中国社会の不満が爆発した出来事である。山東や直隷(河北)を中心に活動した秘密結社「義和団」が、外国人や宣教師、中国人キリスト教徒を襲撃し、それに対して列強が8カ国共同出兵を行い北京を占領した結果、清朝は莫大な賠償金と主権制限を受けることになった。この義和団事件は、中国における反帝国主義運動の先駆的事例として、のちの民族主義や革命運動にも大きな影響を与えた出来事と位置づけられる。

背景:列強の進出と清朝社会の不安

19世紀前半のアヘン戦争以降、清朝は一連の不平等条約によって港湾の開港や関税自主権の喪失を強いられ、沿海部では外国商人や宣教師の活動が急速に拡大した。19世紀後半になると、列強は中国を勢力範囲に分割しようとする帝国主義政策を強め、鉄道敷設権や鉱山利権などを奪取した。とくに日清戦争の敗北後、中国は「瓜分」の危機に直面し、山東や東北などでロシアやドイツなどの列強の進出が目立つようになった。こうした外国勢力の浸透は、農村経済の破綻や治安悪化と結びつき、農民や下層民衆の間に強い不満と排外感情を生み出した。

義和団の成立と思想

義和団は、もともと北中国の民間武術結社や宗教結社が母体となった集団であり、「義和拳」などと称して武術修行や呪術的な修練を行っていた。彼らは拳法や護身術により銃弾をもはね返すと信じ、「扶清滅洋」(清を扶けて西洋を滅ぼす)というスローガンを掲げて、外国人やキリスト教勢力を排除することを自らの使命とした。義和団の運動は、たび重なる飢饉や災害、官吏の汚職に苦しむ農民の不満を吸収しつつ、反キリスト教・反外国人という形で爆発したため、宗教的・呪術的要素と社会不満が密接に結びついた大衆運動として広がった。

事件の展開と北京への進撃

1899年頃から山東省で義和団の活動が激化し、教会の焼き討ちやキリスト教徒への暴行が頻発した。当初、清朝地方官の中には義和団を弾圧しようとする者もいたが、やがて排外感情を利用して外国勢力に対抗しようとする官僚も現れ、取り締まりは次第に緩んでいった。1900年には運動の中心が直隷へ広がり、鉄道施設や電信線など西洋文明の象徴とみなされたインフラへの破壊行動が激化した。ついに義和団は北京へ進撃し、外国公使館区域を包囲して外交団やキリスト教徒を攻撃したことで、事態は国際問題へと発展した。こうして義和団事件は、地方的な排外暴動から、首都を巻き込む大規模な政治・外交危機へと転化したのである。

8カ国出兵と北京占領

北京の外国公使館区域が包囲され、多数の外国人や中国人キリスト教徒が危機に陥ると、列強は軍事力による介入を決断した。日本、ロシア、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリーの8カ国は共同で出兵し、まず天津を攻略してから北京への進軍を開始した。日本軍は兵力・装備の面で大きな役割を果たし、連合軍は1900年8月に北京へ突入して占領した。北京陥落の過程では、義和団勢力や清軍との激しい戦闘に加え、都市での略奪や住民への暴行が行われ、多くの犠牲者と文化財の損壊を生んだ。清朝宮廷は西太后らとともに西安へ逃れ、中央政府の権威は大きく失墜した。

辛丑条約と清朝の変容

義和団事件後、列強は清朝に対して厳しい講和条件を突きつけ、1901年に締結されたのがいわゆる辛丑条約(北京議定書)である。この条約によって、中国は巨額の賠償金支払いを約束し、北京など要地への外国軍駐留や公使館区域の拡大を認めたほか、反外国運動の禁止や関係官僚の処罰など、主権を大きく制限されることとなった。清朝は事態の打開を図るため、軍制改革や教育制度の近代化を含む新政を推進し、立憲制導入をめざす動きも生まれたが、その背景には義和団事件によって露呈した政治体制の脆弱さと、外圧への対応の失敗があった。

変法運動との関係と歴史的意義

義和団事件は、清朝内部の改革派と保守派の対立とも密接に関連している。事件の数年前には、光緒帝のもとで康有為らが進めた戊戌の変法が西太后ら保守派によって挫折させられたばかりであり、近代化を通じて列強に対抗しようとする路線は一度否定されていた。こうした中で、保守派は民衆の排外感情を利用しようとしたが、結果としては列強の大規模な軍事介入とさらなる半植民地化を招き、清朝の権威と国際的地位は決定的に弱体化した。義和団事件は、帝国主義時代の中国がいかにして列強の圧力と国内改革の選択を迫られたかを象徴する事件であり、その後の革命運動や近代中国ナショナリズムの形成を理解するうえで不可欠な歴史的転換点といえる。