列強の二極分化とバルカン危機|列強対立が火薬庫を揺るがす

列強の二極分化とバルカン危機

列強の二極分化とバルカン危機とは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパの列強が二つの軍事同盟陣営に分裂し、とくにバルカン半島をめぐる対立と危機が連鎖的に激化していき、最終的に第一次世界大戦勃発へとつながっていく過程を指す概念である。帝国主義の進展と国民国家の形成が進むなかで、列強は勢力圏拡大と安全保障のために同盟網を構築し、バルカン半島ではオスマン支配の後退と民族運動の高まりが複雑に絡み合い、ヨーロッパ全体の火薬庫と呼ばれる状況が生じた。

19世紀末ヨーロッパ列強の勢力構図

19世紀後半のヨーロッパでは、ドイツ帝国イタリアの統一の結果、新興国が台頭し、従来の覇権国であるイギリスフランスとの力の均衡が崩れつつあった。とりわけビスマルク外交の下で統一を達成したドイツは、工業力と軍事力を背景に大陸での地位を急速に高めた一方、伝統的な多民族国家であるオーストリア帝国や、広大な領土をもつロシア帝国は、国内の民族問題と対外的な勢力拡大を同時に抱える不安定な大国であった。さらに、衰退するオスマン帝国の支配地域、とくにバルカン半島は、これら諸国の利害がもっとも鋭く交錯する地域となった。

三国同盟と三国協商の成立

ビスマルクはドイツの安全保障を確保するため、周辺諸国との複雑な同盟網を築いたが、世紀転換期にはその均衡が崩れ、列強は「三国同盟」と「三国協商」という二つの陣営に再編された。三国同盟はドイツオーストリア=ハンガリーイタリアから成り、主としてフランスとロシアを牽制するための軍事同盟であった。これに対し、三国協商は英仏協商・英露協商を通じて形成された、イギリスフランスロシアの提携であり、ドイツの海軍拡張と世界政策への対抗を目的とした。このようにヨーロッパの列強は、互いに安全保障を求めつつも、結果として二極的な軍事ブロックを作り上げていった。

バルカン半島の民族問題と列強

バルカン半島は、スラヴ系・ギリシア系・アルバニア系など多様な民族と宗教が混在する地域であり、19世紀には民族自決を掲げた独立運動が相次いだ。セルビアやブルガリア、ギリシアなどの独立国家は、同じスラヴ系を保護しようとするロシアの援助を受ける一方、オーストリア=ハンガリーは自らの多民族帝国内のスラヴ民族運動との連動を恐れ、セルビアの拡大を強く警戒した。ここに、汎スラヴ主義とそれに対抗するオーストリアの膨張政策という対立構図が生まれ、バルカン問題は列強間の対立を象徴する舞台になった。

バルカン戦争とヨーロッパ外交

20世紀初頭には、バルカン諸国が連合してオスマン帝国と戦ったバルカン戦争が勃発し、領土再分配をめぐる紛争が激化した。第1次バルカン戦争でオスマン帝国がバルカンの大部分を失うと、続く第2次バルカン戦争では、勝利を得たはずのバルカン諸国同士が領土と勢力範囲をめぐって争った。この過程で、オーストリア=ハンガリーとセルビアの対立は決定的となり、ロシアはセルビア支持を明確にしたため、三国同盟陣営と三国協商陣営の緊張は一層高まった。列強は一連の国際会議や外交交渉で危機の封じ込めを試みたが、相互不信と軍拡競争が進むなかで、危機管理は次第に機能しなくなっていった。

サラエボ事件と世界大戦への連鎖

1914年、サラエボ事件においてオーストリア皇位継承者がセルビア系青年によって暗殺されると、オーストリア=ハンガリーはセルビアへの強硬姿勢を取り、ロシアがこれに反発して動員を開始した。連鎖的な動員と同盟義務の発動により、ドイツやフランス、イギリスも次々に参戦し、局地的なバルカン危機は瞬く間にヨーロッパ全体、さらには世界規模の戦争へと拡大した。このように、二極化した同盟体制と解決されないバルカン問題が結びついたところに、第一次世界大戦の構造的な原因を見出すことができるのである。