オーストリア帝国
オーストリア帝国は、1804年にハプスブルク家の君主フランツ1世(旧皇帝フランツ2世)が成立させ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国へと改組されるまで存続した中欧の多民族帝国である。皇帝がそれまでの神聖ローマ帝国体制の動揺とナポレオンの台頭に直面し、自らの世襲領を近代的主権国家として再編成しようとした結果生まれた国家であり、ドナウ川流域を中心にドイツ人・チェコ人・マジャル人・イタリア人など多様な民族を抱え、19世紀ヨーロッパ国際政治の中心的な勢力の一つであった。
成立の背景
18世紀末、ハプスブルク家はオーストリア、ボヘミア、ハンガリーなどの世襲領を支配しつつ、形式上は神聖ローマ皇帝としてドイツ世界全体に権威を及ぼしていた。しかしフランス革命とナポレオン1世の登場により旧来の帝国秩序は急速に崩壊し、ドイツ諸邦はフランスの影響下で再編されていく。こうしたなかでハプスブルク君主は、フランスに対抗しうる独自の皇帝号を確保し、自らの世襲領を守るためにオーストリア帝国の樹立を宣言したのである。
ナポレオン戦争とウィーン会議
オーストリア帝国は、ナポレオン戦争期において対フランス包囲網の中核としてたびたび戦場となった。第3回対仏大同盟ではアウステルリッツの会戦や三帝会戦でフランス軍に大敗し、その結果ドイツ諸邦がライン同盟に編入され、皇帝は神聖ローマ皇帝位の放棄を余儀なくされた。ナポレオン失脚後、1814〜15年のウィーン会議では、外相メッテルニヒがヨーロッパの保守的国際秩序を構想し、オーストリアはイタリアや中欧における影響力を維持しつつ大国としての地位を取り戻した。
多民族帝国としての性格
オーストリア帝国は、ドナウ川流域からアルプス、バルカン北部にかけて広がる多民族・多言語・多宗教の帝国であった。行政の中枢を握ったのはドイツ語を話す官僚と貴族であり、帝国内のチェコ人、ハンガリー人、クロアチア人、イタリア人などは、それぞれの歴史的特権と自治要求を抱えていた。国家は中央集権的官僚制と常備軍、カトリック教会との結びつきを通じて統一を図ったが、19世紀に高まる民族運動はこの統合をしばしば揺るがした。
1848年革命と体制の動揺
1848年にヨーロッパ各地で起こった「諸国民の春」はオーストリア帝国にも波及し、ウィーンでは自由主義的改革と憲法制定を求める市民や学生が蜂起した。ハンガリーでは独自の議会と政府を求める運動が高まり、帝国の統一は危機に陥った。ウィーン体制の象徴であったメッテルニヒは失脚し、若い皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が即位する。軍事力とロシアの援軍により反乱は鎮圧されたが、その後のネオアブソリュート(新絶対主義)体制は民族問題を根本的に解決することができなかった。
プロイセンとの対立と帝国の再編
19世紀後半、ドイツ統一をめぐってオーストリア帝国はプロイセンと競合する立場に立った。ドイツ関税同盟や小ドイツ主義の台頭により、オーストリアはドイツ世界の主導権を徐々に失い、1866年の普墺戦争でプロイセン軍に敗北する。敗戦によりドイツ統一から排除されたオーストリアは、代わってハンガリー貴族との妥協を選択し、1867年のアウスグライヒ(妥協)によって二重君主国家オーストリア=ハンガリー帝国へと再編された。
ナポレオン時代との連続性
オーストリア帝国の歴史は、ナポレオン時代の経験と密接に結びついている。ナポレオン戦争における敗北と講和を通じて、帝国は領土を失いながらも国家機構の近代化を進め、軍制改革や財政制度の整備を行った。アウステルリッツの戦いやアウステルリッツの戦い、対仏大同盟の形成など、ナポレオンとの抗争は帝国政治の方向性を左右し、その後の第一帝政やナポレオンの大陸支配をめぐる国際秩序の変化に対応する中で、オーストリアは保守的ながらも柔軟な外交を展開した。
歴史的意義
オーストリア帝国は、旧来の王朝国家が近代国民国家の時代に直面し、多民族・多言語空間をどのように統合しようとしたかを示す典型例である。その統治はしばしば保守的で抑圧的であったが、一方で帝国内には大学や文化施設、複雑な官僚制度が発達し、ウィーンは音楽や学問の中心都市として栄えた。帝国の解体後、その領域にはオーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチアなど多数の国家が成立し、現在の中東欧の国境と民族問題にも大きな影響を残している。