空也(阿弥陀聖,市聖,市上人)|六波羅蜜寺の空也像

空也

空也(903-972)阿弥陀聖、市聖(いちのひじり)、市上人とも呼ばれる。平安時代中期ころに活躍し、諸国を遊行して念仏の功徳を庶民に布教した。著作は残していないので、不明な点が多いが各地に多くの伝承が残っている。19歲の時、尾張(愛知県)の国分寺で出家し、35歳のころ京都で念仏を広め、45歳のころ比叡山にて受戒した。70歳の時に東山西光寺(現在の六波羅蜜寺)で死去した。民衆に念仏を唱えることで浄土にいけるという浄土教を広めた。また単なる普及だけでなく貧民や病人の救済、井戸掘りなどの社会事業、野ざらしとなった遺体を弔い、死者への鎮魂の念仏を行うといった慈善活動をおこなったと伝えられる。空也の活動によって、民衆に念仏が広まる機縁をつくり、浄土宗の基盤を作ったといえる。

出自と若年期の修行

空也の出自については確実な同時代史料が乏しく、その生い立ちは謎に包まれている部分が多い。一説には醍醐天皇の落胤(皇子、あるいは皇孫)であったとも伝えられているが、真偽のほどは定かではない。しかし、本人は自らの高貴な素性を語ることを好まず、生涯にわたって一介の沙門(修行僧)としての立場を貫いた。若い頃から尾張国分寺など諸国を巡り、山林での厳しい苦修練行を重ねた。特に霊山での修行を重視し、修験道的な要素を併せ持っていたとされる。若き日の空也は「沙弥(しゃみ)」と名乗り、特定の宗派や寺院などの権威に縛られることなく、各地で道路の補修や橋の建設などの利他行(社会奉仕活動)を行いながら、独自の信仰体系を深めていった。

比叡山での受戒と市井での活動

天慶元年(938年)、空也は京都の市中に入り、本格的に市井の人々に対する布教を開始した。その後、天慶11年(948年)には比叡山延暦寺において、時の天台座主であった延昌から戒壇院で大乗戒を受け、「光勝」という戒名を与えられた。これにより正式な僧侶としての資格を得たが、その後も権力や大寺院の枠組みに組み込まれることを強く拒み、再び京都の市街へと戻っていった。街頭で鉢を叩き、念仏を唱えながら歩く彼の姿は多くの人々の関心を集め、時の権力者や貴族から日々の生活に苦しむ貧民に至るまで、幅広い階層の民衆から熱烈な帰依を受けた。

名称 詳細
通称 市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖
活動拠点 平安京(京都)を中心とした日本各地
宗派 天台宗(後に浄土教や時宗の先駆となる)
開基した寺院 西光寺(のちの六波羅蜜寺)

阿弥陀聖、市聖、市上人

空也は非公式の僧として諸国を遊行し、貧者や病人に与えたり、井戸をほるといった社会活動を行ったため、阿弥陀聖、市聖、市上人と呼ばれるようになる。天台僧となっても京の庶民に対して活動を行った。また、布教だけでなく道路や橋の設置、寺や堂の修理、野原の無緑の死骸の火葬を行った。京都に住みついてからは、京の市で乞食をして、貧民や病人の世話をしたと伝えられている。 こうした慈善活動によって民衆から多くの支持を得た。

六波羅蜜寺の創建と疫病退散

天暦5年(951年)、京都で大規模な疫病が流行し、多数の死者が出た際、空也は悪疫退散と民衆の救済を祈願し、自ら十一面観音菩薩像の造立を思い立った。自らもノミを振るって彫刻したとされるこの観音像を荷車に乗せ、京都の洛中を引き歩きながら念仏を勧めたと伝えられている。この時に彼が病人に梅干しと結び昆布を入れた薬湯を施したことが、現在の京都に伝わる「皇服茶(大福茶)」の起源とされている。

  • 天暦5年(951年):悪疫退散のため十一面観音菩薩像を造立し、洛中を巡行する。
  • 応和3年(963年):鴨川の岸にて大規模な金字大般若経供養会を営み、多くの民衆を集める。
  • 康保元年(964年):京都の東山に一堂を建立し、西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建する。

西光寺は空也の没後に中興され、六波羅蜜寺と改称された。この寺院は現在も京都市東山区に存在し、彼の足跡と精神を現代に伝えている。

思想と後世への影響

空也の思想の根本は、死後に極楽浄土への往生を願い、ひたすらに阿弥陀如来の御名を唱える「称名念仏」の実践にあった。当時の仏教は主に国家の安泰を祈願する鎮護国家の教えや、一部の特権的な貴族のための学問的・呪術的なものが中心であった。そのような時代背景の中、難しい教理を理解できなくても、あるいは出家して厳しい戒律を守らなくても、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで等しく救われるという彼の教えは画期的であった。これは日本の仏教史において、宗教の民衆化を推し進めた極めて重要な転換点として位置づけられている。

空也上人立像

空也の姿を今に伝える最も著名な美術品として、鎌倉時代に慶派の仏師である康勝(運慶の四男)によって制作された「木造空也上人立像」(重要文化財)がある。この像は、首から鉦(かね)を下げ、右手に撞木、左手に鹿の角が付けられた杖を持ち、草鞋履きで歩きながら念仏を唱える姿を極めて写実的に捉えている。とりわけ、開かれた口から6体の小さな阿弥陀如来像が飛び出している表現は、「南無阿弥陀仏」の6文字がそれぞれ仏の姿となって現れたという伝承を見事に視覚化したものであり、日本仏教彫刻史における屈指の傑作として高く評価されている。

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