白紙(タブラ=ラサ)|ロック

白紙(タブラ=ラサ)

白紙(タブラ=ラサ)とは、人間の認識の起源に関する哲学者ジョン・ロックの言葉で、経験によって外から知識や観念を与えられる前は、生まれつきの人間の心は、何も書かれてない白紙の状態であることを意味する。タブラ=ラサとは、ラテン語で何も書かれていない板・白紙を意味する。ロックは、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、デカルトの説いた神や実体についての生得観念を否定し、感覚と反省という二つの経験の作用によって、心にさまざまな観念が刻まれていくと説いた。

ジョン・ロック 政治・哲学

ジョン・ロック 政治・哲学

認識の起源について 白紙(タブラ=ラサ)の状態での生誕

ジョン・ロックは、人間の認識の起源に関してはホッブズと同様、経験論の立場に立ち、デカルトの生得観念の思想に対して激しく対立した。ジョン・ロックによると、人間の持つすべての観念(idea) は決して生得観念(生まれながらにもっている観念)ではない。われわれは生まれながらに白紙(タブラ・ラサ)の状態であって、そのとき心には文字もなにも書き込まれていない。生得観念などはなく、経験によって、そこに書き込まれてくる。

デカルト哲学の否定の根拠 1.普遍的承認の否定

ジョン・ロックは生得観念(生まれながらに持っている観念)の否定の根拠として、普遍的承認の否定した。生得観念が存在することの根拠としては、ある種の観念が普遍的承認を受けているという事実が挙げられるが、しかしたとえば神の念というものを考えても、未開民族の中には神の観念を持たないものもあり、また文化的な民族においてさえ多くの人が神の観念を持っていない。また最も根本的な理論的原理、たとえば「いかなるものも、あるものはある」(同一律)とか「同じものがあり、かつあらぬことはできない」(矛盾律)というような原理にしても、子供や白痴はこれについて全然知っていないし、したがってそれが普遍的承認を受けているとは言いえない。

デカルト哲学の否定の根拠 2.数学の公理や定理の否定

もしも理性を用いることによってわれわれの発見することがすべて生まれながらに持っているとするなら、たとえば数学の公理も定理もすべて生得的であると言わねばならない。しかしこれは不合理である。同じように実践的原理についてもそれが国や民族が異なり、時代背景にもよって、様々な相異なる考え方があるということからも、生得的でないことは明らかである。

経験が白紙(タブラ=ラサ)に書き込む

心は、何等の文字も書き込まれていない白紙、タブラ=ラサの状態で生まれてくるものであり、この白紙に文字を書き込むのは、経験のみである。経験によって我々は観念を作り出す。なお、ジョン・ロックは経験について、感覚(sensation)と反省(refection)との二種類をあげる。この二つを除いて我々は観念を作り出すことはできない。

経験の種類:感覚

感覚(sensation)とは、外界の感覚的対象が我々の感官に対して影響を与え、そこに生じた知覚が感官によってわれわれの心に運び入れられることである。感覚によってわれわれは感覚的性質と呼ぶものについて我々が持っている観念を得ることができる。

経験が白紙(タブラ=ラサ)に書き込む

反省(refection)とは我々自身の心の作用を知覚することであり、内感(internal sense) とも呼ばれる。反省によって我々は自身の心の作用に関する観念を得ることができる。

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